2020年09月26日
9月26日(土)の鳥見 震災遺構 山元町の中浜小学校 公開開始
本日のニュースで「山元町の校舎浸水の中浜小学校 震災遺構として公開始まる」と報じられていた
◇東日本大震災で被災し、児童など90人が一夜を過ごした宮城県山元町の中浜小学校が教訓を伝える震災遺構として整備され、本日(26日)から一般公開が始まった。
◇山元町の中浜小学校は東日本大震災の津波で2階建ての校舎の屋上近くまで浸水し、児童や住民など90人が屋上の上にある屋根裏の倉庫に避難して全員が助かった。
◇2年後に閉校となったが、教訓を伝える震災遺構として整備され、26日から一般公開が始まった。
◇校舎は見学用の通路以外はほぼ被災直後の状態で保存されている。児童たちが一夜を過ごした屋根裏の倉庫にはコンクリートの床に段ボールや模造紙が敷かれたままになっていて、一時は氷点下となった寒さをしのぐために児童たちが身を寄せ合っていた様子がうかがえる。
とのこと。
以前本ブログにアップした中浜の話を復刻。以下の通り
H25.03.20
県南沿岸部の山元町中浜海岸で鳥見をしていたら年配の男性(Aさん)が声をかけてきた。以下Aさんの話。
◇Aさんは、津波で被災した。漁師をしていた方で、海岸すぐ近くにあった自宅跡の様子を見に来た。
(情報によると、山元町は東日本大震災により震度6を記録し、その後の津波で町全体の約4割が浸水するという壊滅的な被害を受けた。死者行方不明者は600人以上、建物全壊が2200棟におよんでいる)
◇ここ中浜の集落は約300棟の建物が全部流され、130人以上の人が亡くなっているという。海岸の松並木は軒並み倒されそれが家屋の損傷の大きな要因になった。
◇地震の直後は地面に大きな亀甲模様のひび割れが生じ、隙間から砂を含んだ水が吹き上げてきたという(いわゆる液状化)。これでマンホールは持ち上げられた。
◇県道脇の排水路のマンホールの高さがやけに高いと思ったが地盤沈下というより液状化による持ち上がりなら納得である(写真)
◇Aさん自身は漁港のある磯浜港に船をつなぎ、津波をみてからあわててすぐ近くの高台へ車で逃げて助かったが、一緒にいた同僚2人は間に合わず亡くなったとのこと。
◇海岸から500mほどのところにある中浜小の校舎の躯体は残っているがまわりにはまったく家は残っていない。津波の際、校長の適切な判断により90人の児童は自宅に帰宅せず校舎にとどまり屋上に避難して全員助かったという。津波当日の寒い夜をしのぎ翌日自衛隊に救出された。
◇Aさんは、震災前は、午前中は漁に出て午後は自家用の野菜作りという生活であった。
◇今は仮設住宅住まい。畑は土が流されて耕作できない。衣料・食料は支援があり心配ない。奥さんはガレキの分別のパートに出ているが年度末と年度初めは仕事が切れるし、いつまでも継続できる仕事ではない。
◇早く自分の家に住みたいが災害住宅地の整備は思うように進まない、動きが遅い。近くの高台に移りたいが町・県はもっと遠くへの移設を考えており個別の移動は認めてくれない。
◇漁に出るにも船がない。多用途可能にすると建造費は5000万円はかかる。2/3は補助されるが自費で1/3を負担するのは大変。さらに網や道具もそろえなければならない。
◇磯浜では現在3隻の船が稼動、これから増えてくる見込み。
◇震災前はホッキをよく獲っていたが、今はガレキが多くホッキ漁は出来ない。
◇漁ができても放射能の問題がある。ここは原発に近い。ただし県が違うと福島県のように補償がされていない。声が上にとどいていない。
◇特区で会社組織で漁をする方法は現実的でない。会社は儲からなければすぐに解散することになってしまうのではないか。
◇若くはないので他所へ行って仕事は難しい。
◇頑張れといわれても頑張りようがない。
話をきくほどにやりきれなさを感じるばかり・・。せめて漁業補償の話が円滑に進むとよいと思った。
写真はH24年1月撮影中浜小学校まわりの状況

◇東日本大震災で被災し、児童など90人が一夜を過ごした宮城県山元町の中浜小学校が教訓を伝える震災遺構として整備され、本日(26日)から一般公開が始まった。
◇山元町の中浜小学校は東日本大震災の津波で2階建ての校舎の屋上近くまで浸水し、児童や住民など90人が屋上の上にある屋根裏の倉庫に避難して全員が助かった。
◇2年後に閉校となったが、教訓を伝える震災遺構として整備され、26日から一般公開が始まった。
◇校舎は見学用の通路以外はほぼ被災直後の状態で保存されている。児童たちが一夜を過ごした屋根裏の倉庫にはコンクリートの床に段ボールや模造紙が敷かれたままになっていて、一時は氷点下となった寒さをしのぐために児童たちが身を寄せ合っていた様子がうかがえる。
とのこと。
以前本ブログにアップした中浜の話を復刻。以下の通り
H25.03.20
県南沿岸部の山元町中浜海岸で鳥見をしていたら年配の男性(Aさん)が声をかけてきた。以下Aさんの話。
◇Aさんは、津波で被災した。漁師をしていた方で、海岸すぐ近くにあった自宅跡の様子を見に来た。
(情報によると、山元町は東日本大震災により震度6を記録し、その後の津波で町全体の約4割が浸水するという壊滅的な被害を受けた。死者行方不明者は600人以上、建物全壊が2200棟におよんでいる)
◇ここ中浜の集落は約300棟の建物が全部流され、130人以上の人が亡くなっているという。海岸の松並木は軒並み倒されそれが家屋の損傷の大きな要因になった。
◇地震の直後は地面に大きな亀甲模様のひび割れが生じ、隙間から砂を含んだ水が吹き上げてきたという(いわゆる液状化)。これでマンホールは持ち上げられた。
◇県道脇の排水路のマンホールの高さがやけに高いと思ったが地盤沈下というより液状化による持ち上がりなら納得である(写真)
◇Aさん自身は漁港のある磯浜港に船をつなぎ、津波をみてからあわててすぐ近くの高台へ車で逃げて助かったが、一緒にいた同僚2人は間に合わず亡くなったとのこと。
◇海岸から500mほどのところにある中浜小の校舎の躯体は残っているがまわりにはまったく家は残っていない。津波の際、校長の適切な判断により90人の児童は自宅に帰宅せず校舎にとどまり屋上に避難して全員助かったという。津波当日の寒い夜をしのぎ翌日自衛隊に救出された。
◇Aさんは、震災前は、午前中は漁に出て午後は自家用の野菜作りという生活であった。
◇今は仮設住宅住まい。畑は土が流されて耕作できない。衣料・食料は支援があり心配ない。奥さんはガレキの分別のパートに出ているが年度末と年度初めは仕事が切れるし、いつまでも継続できる仕事ではない。
◇早く自分の家に住みたいが災害住宅地の整備は思うように進まない、動きが遅い。近くの高台に移りたいが町・県はもっと遠くへの移設を考えており個別の移動は認めてくれない。
◇漁に出るにも船がない。多用途可能にすると建造費は5000万円はかかる。2/3は補助されるが自費で1/3を負担するのは大変。さらに網や道具もそろえなければならない。
◇磯浜では現在3隻の船が稼動、これから増えてくる見込み。
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◇漁ができても放射能の問題がある。ここは原発に近い。ただし県が違うと福島県のように補償がされていない。声が上にとどいていない。
◇特区で会社組織で漁をする方法は現実的でない。会社は儲からなければすぐに解散することになってしまうのではないか。
◇若くはないので他所へ行って仕事は難しい。
◇頑張れといわれても頑張りようがない。
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写真はH24年1月撮影中浜小学校まわりの状況

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Posted by OOAKAGERA at 22:04
│東日本大震災 2011.03.11│日常生活