2021年02月08日
2月8日(月)の日記 榴ヶ岡公園の「カウラのユーカリ」
榴ヶ岡公園の「カウラのユーカリ」
◇先日宮城野区文化センターで公開講座があり、聴講した。内容は以下の通り
<講演会テーマ>「あの木」に宿る物語 (取材で出会った樹木たち) 講演者 千葉由香さん
宮城野原案内人の会主催 【宮城野区まちづくり活動助成事業】
◇河北新報夕刊に月2回(奇数週の月曜日)に表記のテーマで記事を連載中の講師から特に宮城野区にゆかりの木について話があった。ちなみに本日夕刊にも掲載あり。
◇この連載の主旨は「樹木を植物の生態からではなく、眼に見える木がどうしてそこにあるか」という視点からアプローチする」というもの。すでに1年半にわたり掲載されているが、この中から宮城野区の以下の3本の木について説明された。
① カウラのユーカリ (榴ヶ岡公園)
② 銀杏町のイチョウ (乳銀杏)
③ 薬師堂のアラカシ
◇このうち特に①は気になる話で、少し「突っ込んで」みた。
【カウラのユーカリ】
◇榴ヶ岡公園のJR榴ヶ岡駅側の石段わきに「カウラのユーカリ」が植えてある(写真参照)

◇オーストラリア・カウラ市で起きた日本人捕虜収容所脱走事件「カウラ事件」の生還者、地元宮城野区原町に住んでおられた故遠藤好雄さんが事件の記憶をとどめるためにと植樹したもの。
◇太平洋戦争最大の捕虜脱走事件であった。かつて日本軍人は捕虜となることを恥辱とし、虜囚の身となるより自決の道を選んだというが、オーストラリアでは戦争の捕虜は前線で戦った勇士としてたたえる風潮があり、ジュネーブ条約にも則り捕虜は丁重に扱われたという。戦後、日本人捕虜の会とオーストラリアのカウラ市民との交流がもたれ、先方から送られた友好記念のユーカリの種をまいて育てられた木とのこと。他の場所では育たなかったがここでは元気に大きくなっている。
◇オーストラリアは北部の熱帯に近いところ以外は非常に乾燥した土地で、どこにでも自生しているユーカリの木は葉っぱに油分を含み、また皮がどんどん剥がれ落ちて更新されて剥がれ落ち自然発火するとのこと。2-3年前にもニュースになった大きな山火事もこの木による自然発火が大きな原因となっているようだ。
◇この「カウラ事件」について詳しくまとめられたノンフィクション小説がある。
【「カウラの突撃ラッパ」(零戦パイロツトはなぜ死んだか) 】
中野不二男著 文春文庫 1991年
◇本の裏書から
オーストラリア・カウラの連合軍捕虜収容所で起きた第二次世界大戦史上最大の日本人暴動。先頭に立って突撃ラッパを吹き鳴らしたのは何者か? 偽名で死んだ若き零戦パイロツトの謎を追ううちに、取材の足は豪州から東京、さらに四国へ。そして明らかになった40年目の真実とは・・・。日本ノンフィクション賞受賞作。
◇日本人捕虜のキャンプ内には、強権派と穏健派の大きな2つの流れがあった。強権派は戦争初期に捕虜となった海軍の飛行機乗りが多かった。戦場での空腹や重傷にも会わず何等かの事情で突発的に捕虜となつた一団で海軍出身者が多かった。一方穏健派は、不利な戦闘の苦闘をいやというほどなめさせられ、重傷や病気のため身動きがとれない状況下で捕まった陸軍出身者が多い。内心はどうあれ強権論に正面切って反対するものはおらず大儀名文は強権派にあった。
◇そんな中で下士官と兵の分離が通達され、捕虜側の班長会議が時間をかけて行われ、日ごろからくすぶっていた脱走計画について論議された。大勢を占めていたはずの穏健派も強権派の大義の前には意見をだせなかった。ぶつぶつと文句を言いあうだけだった班長会議に思わぬ飛び入りが入り「貴様らそれでも軍人か!それでも帝国軍人か・・」と檄を飛ばされ穏健派はもちろん強権派も触れられたくなかった「出撃」を主張し一気に具体化させてしまった。
◇出撃賛成反対表明が投票により行われた。トイレットペーパーを小さく切った1枚の投票用の紙片が生死を決めるために配られた。出撃に賛成か反対か。すなわち×は<生>、〇は<死>を意味する。結果は8割が〇で圧倒的多数で決行が決められた。兵器はナイフ、フォーク、スプーン、野球のバツト、薪であった。不要な衣服を建物に火をつけるのに使った。病弱者、歩行困難者はあらかじめ自決を強いられた。ひどい話である。
◇1944年8月5日午前2時、ラッパを合図に「出撃」が決行された。軍隊としての機能などないはずの捕虜収容所に、あたかも戦場のような指揮系統が復活したようである。日本兵1100人が脱走、231人が死亡という結果に終わった。
◇筆者は戦後生まれで戦争は体験していないが、現地に赴き、当事者から丁寧に聞き取りを行い、事実を明らかににしていった。初期の段階で捕虜となりその後収容所の日本人のリーダー格となっていた元零戦パイロツトの捕虜となるまでのいきさつや収容所での行動、偽名をつかっていたが本名をつきとめ実家での聞き取りと克明に調査している。見事な執念である。
◇カウラという名も捕虜収容所も脱走事件も知らなかったが、興味をひかれる史実であった。
もうひとつカウラ事件を題材にしたテレビドラマのDVD
【あの日、ぼくらの命はトイレットペーパーより軽かった~カウラ捕虜収容所からの大脱走】
2008年NTV 小泉孝太郎 大泉洋 阿部サダヲ 加藤あい 淡島千景 山崎努 他 脚本 中園ミホ
◇脚本の中園ミホさんは、大河ドラマ「西郷どん」や朝ドラ「花子とアン」その他多数のドラマを手掛けている当代一流の脚本家。たまたまおじさんがカウラ収容所で捕虜であったことからオーストラリアの現地に行き、カウラ事件を知ってドラマ化したとのこと(DVDにはドラマ誕生の裏話が添付されている)
◇上記のノンフィクションをベースにドラマ化されている。小泉孝太郎、大泉洋と「さわやか系」の2人が主役だが、今では売れっ子となった何人かの俳優の10年以上前の若かりし姿が見れて楽しい
◇カウラはシドニーの西320キロにある小さな町。1944年8月5日、この町にあった捕虜収容所で日本人捕虜たちが暴動を起こした。オーストラリアではだれでも知っている有名な事件だが日本の教科書には登場しない。
『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』・・・この戦陣訓にしばられ、当時の日本政府はこの事件を隠蔽し、当事者のほとんどが口をつぐんだからである。
◇寒い日、小雪も降るし・・で、外に出にくかったので家にこもり一気に文庫本を読み切り。なかなか読みごたえありでした。鳥見に榴ヶ岡公園に立ち寄った時にでも「ユーカリの木」をおがんで戦時中オーストラリアであった事件に思いをはせてはいかがでしょうか。
◇先日宮城野区文化センターで公開講座があり、聴講した。内容は以下の通り
<講演会テーマ>「あの木」に宿る物語 (取材で出会った樹木たち) 講演者 千葉由香さん
宮城野原案内人の会主催 【宮城野区まちづくり活動助成事業】
◇河北新報夕刊に月2回(奇数週の月曜日)に表記のテーマで記事を連載中の講師から特に宮城野区にゆかりの木について話があった。ちなみに本日夕刊にも掲載あり。
◇この連載の主旨は「樹木を植物の生態からではなく、眼に見える木がどうしてそこにあるか」という視点からアプローチする」というもの。すでに1年半にわたり掲載されているが、この中から宮城野区の以下の3本の木について説明された。
① カウラのユーカリ (榴ヶ岡公園)
② 銀杏町のイチョウ (乳銀杏)
③ 薬師堂のアラカシ
◇このうち特に①は気になる話で、少し「突っ込んで」みた。
【カウラのユーカリ】
◇榴ヶ岡公園のJR榴ヶ岡駅側の石段わきに「カウラのユーカリ」が植えてある(写真参照)




◇オーストラリア・カウラ市で起きた日本人捕虜収容所脱走事件「カウラ事件」の生還者、地元宮城野区原町に住んでおられた故遠藤好雄さんが事件の記憶をとどめるためにと植樹したもの。
◇太平洋戦争最大の捕虜脱走事件であった。かつて日本軍人は捕虜となることを恥辱とし、虜囚の身となるより自決の道を選んだというが、オーストラリアでは戦争の捕虜は前線で戦った勇士としてたたえる風潮があり、ジュネーブ条約にも則り捕虜は丁重に扱われたという。戦後、日本人捕虜の会とオーストラリアのカウラ市民との交流がもたれ、先方から送られた友好記念のユーカリの種をまいて育てられた木とのこと。他の場所では育たなかったがここでは元気に大きくなっている。
◇オーストラリアは北部の熱帯に近いところ以外は非常に乾燥した土地で、どこにでも自生しているユーカリの木は葉っぱに油分を含み、また皮がどんどん剥がれ落ちて更新されて剥がれ落ち自然発火するとのこと。2-3年前にもニュースになった大きな山火事もこの木による自然発火が大きな原因となっているようだ。
◇この「カウラ事件」について詳しくまとめられたノンフィクション小説がある。
【「カウラの突撃ラッパ」(零戦パイロツトはなぜ死んだか) 】
中野不二男著 文春文庫 1991年
◇本の裏書から
オーストラリア・カウラの連合軍捕虜収容所で起きた第二次世界大戦史上最大の日本人暴動。先頭に立って突撃ラッパを吹き鳴らしたのは何者か? 偽名で死んだ若き零戦パイロツトの謎を追ううちに、取材の足は豪州から東京、さらに四国へ。そして明らかになった40年目の真実とは・・・。日本ノンフィクション賞受賞作。
◇日本人捕虜のキャンプ内には、強権派と穏健派の大きな2つの流れがあった。強権派は戦争初期に捕虜となった海軍の飛行機乗りが多かった。戦場での空腹や重傷にも会わず何等かの事情で突発的に捕虜となつた一団で海軍出身者が多かった。一方穏健派は、不利な戦闘の苦闘をいやというほどなめさせられ、重傷や病気のため身動きがとれない状況下で捕まった陸軍出身者が多い。内心はどうあれ強権論に正面切って反対するものはおらず大儀名文は強権派にあった。
◇そんな中で下士官と兵の分離が通達され、捕虜側の班長会議が時間をかけて行われ、日ごろからくすぶっていた脱走計画について論議された。大勢を占めていたはずの穏健派も強権派の大義の前には意見をだせなかった。ぶつぶつと文句を言いあうだけだった班長会議に思わぬ飛び入りが入り「貴様らそれでも軍人か!それでも帝国軍人か・・」と檄を飛ばされ穏健派はもちろん強権派も触れられたくなかった「出撃」を主張し一気に具体化させてしまった。
◇出撃賛成反対表明が投票により行われた。トイレットペーパーを小さく切った1枚の投票用の紙片が生死を決めるために配られた。出撃に賛成か反対か。すなわち×は<生>、〇は<死>を意味する。結果は8割が〇で圧倒的多数で決行が決められた。兵器はナイフ、フォーク、スプーン、野球のバツト、薪であった。不要な衣服を建物に火をつけるのに使った。病弱者、歩行困難者はあらかじめ自決を強いられた。ひどい話である。
◇1944年8月5日午前2時、ラッパを合図に「出撃」が決行された。軍隊としての機能などないはずの捕虜収容所に、あたかも戦場のような指揮系統が復活したようである。日本兵1100人が脱走、231人が死亡という結果に終わった。
◇筆者は戦後生まれで戦争は体験していないが、現地に赴き、当事者から丁寧に聞き取りを行い、事実を明らかににしていった。初期の段階で捕虜となりその後収容所の日本人のリーダー格となっていた元零戦パイロツトの捕虜となるまでのいきさつや収容所での行動、偽名をつかっていたが本名をつきとめ実家での聞き取りと克明に調査している。見事な執念である。
◇カウラという名も捕虜収容所も脱走事件も知らなかったが、興味をひかれる史実であった。
もうひとつカウラ事件を題材にしたテレビドラマのDVD
【あの日、ぼくらの命はトイレットペーパーより軽かった~カウラ捕虜収容所からの大脱走】
2008年NTV 小泉孝太郎 大泉洋 阿部サダヲ 加藤あい 淡島千景 山崎努 他 脚本 中園ミホ
◇脚本の中園ミホさんは、大河ドラマ「西郷どん」や朝ドラ「花子とアン」その他多数のドラマを手掛けている当代一流の脚本家。たまたまおじさんがカウラ収容所で捕虜であったことからオーストラリアの現地に行き、カウラ事件を知ってドラマ化したとのこと(DVDにはドラマ誕生の裏話が添付されている)
◇上記のノンフィクションをベースにドラマ化されている。小泉孝太郎、大泉洋と「さわやか系」の2人が主役だが、今では売れっ子となった何人かの俳優の10年以上前の若かりし姿が見れて楽しい
◇カウラはシドニーの西320キロにある小さな町。1944年8月5日、この町にあった捕虜収容所で日本人捕虜たちが暴動を起こした。オーストラリアではだれでも知っている有名な事件だが日本の教科書には登場しない。
『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』・・・この戦陣訓にしばられ、当時の日本政府はこの事件を隠蔽し、当事者のほとんどが口をつぐんだからである。
◇寒い日、小雪も降るし・・で、外に出にくかったので家にこもり一気に文庫本を読み切り。なかなか読みごたえありでした。鳥見に榴ヶ岡公園に立ち寄った時にでも「ユーカリの木」をおがんで戦時中オーストラリアであった事件に思いをはせてはいかがでしょうか。
Posted by OOAKAGERA at
22:02