2020年03月09日
3月10日(火) 今日は何の日 ①陸軍記念日 ➁東京大空襲
今日は何の日 3月10日 (1日早いが天候不順で外に出られないので記述)
その① 3月10日は戦前は「陸軍記念日であった」
wikipediaによると
【陸軍記念日】
戦前日本では、3月10日が陸軍記念日であった。これは、1905年3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日である。1906年(明治39年)3月10日が第1回陸軍記念日である。[1]
1945年3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になって事実であるかのように出回っていた。日本には事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認できない
■奉天とは現在の瀋陽である。私の中学時代の社会科ではシェンヤンと習ったと思う。清朝時代から栄えた中国東北部の大都市である。日露戦争時はロシアの軍事拠点であったようだ
■「陸軍記念日」を身をもって知っているのはおそらく90歳以上の人だけである。その昔話を聞く人もいなくなりそのうち話題にもならなくなるだろう。時は流れる。
その② 昭和20年3月10日 東京大空襲
【ばあちゃんの日記から】
先年亡くなったおばあちゃんの遺品の中に戦前の女学生時代から続く「日記」があった。日々の生活で特に自分の思いや生活のこと、さらに世間の出来事も記している。食事の献立もメモしてある。もしかしたら民俗学的な資料に値するかも・・・ソレホドノモノデワナイカ・・・?
その中から、昭和20年3月10日の記述に東京大空襲が読み取れた。当時おばあは静岡県清水市に住んでいたが東京に向かうB29の大編隊の様子がわかったようだ(生前直接聞いたこともある。)。ただし、達筆で文字がよく読み取れない。和歌も記しているようだがさっぱりわからない。残念である。
この日の献立は、五色煮(どんなものか?)、いも汁物。質素だ。
東久爾宮の第一皇子誕生との記述もみえる。昭和22年に皇籍離脱しているがこの人昭和天皇の孫にあたる。皇族復帰の話でよく話題になる家か。その第一皇子は昨年3月20日に亡くなっている。その子供に男子がいる様だ。
昭和20年3月10日 ばあちゃんの日記

【関連した話】
東京大空襲の日、蔵王不忘山に米軍機墜落事故 H28.03.10の弊ブログ記事を復刻
◇本日3月10日は、およそ10万人が犠牲となった東京大空襲から71年目にあたる。東京の空襲は何回も行われたがこの日のものが規模が大きく犠牲も大きかった。「歴史上最大の火事」ともいわれたりする。
◇1945年3月10日、東京大空襲の日に東京から300kmも離れた宮城県の不忘山に米軍の爆撃機B29が墜落した。それも3機である。乗組員34人は全員死亡。
◇東京の爆撃のあとなぜここまで飛んで来たのか、またどこへ向かっていたのか、墜落の原因はなにか、すべて不明である。
◇このことにスポットをあてて解明を試みた興味深いテレビ番組が昨年放映された。手元にあるメモで番組を追ってみる。放送局はKHB、番組名は「テレメタリー2015、蔵王に消えたB29~墜落の謎 70年目の真実」。
◇蔵王連峰の最南端に位置する不忘山の標高は1705mである。この山に71年前に爆撃機B29が3機墜落したことが今も語り継がれている。地元宮城県七ケ宿町や白石市には当時の状況を覚えている人たちがいる。
◇B29は確かに墜落していた。墜落した箇所には今でも残骸の破片が残っている。
◇当時の新聞には国民感情を考慮した記事が掲載されている。
◇墜落機は30分から1時間の間隔を置いて来ている。編隊を組んで来たわけでない。3機はバラバラに来た。
◇なぜ、東京から遠く離れた不忘山に、時間がずれて墜落したのか。
◇米軍の残留物の中に東北地方の地図があり山形市に○印がつけられていた。山形市が目的地か。
◇GHQのレポートによると3機は別の部隊に属する。出発地はグァム・サイパン。目的地はいずれも「東京」、墜落の原因は悪天候となっていた。
◇当日の天気は北西風が強く吹き寒気が入っていた。飛行機にとっては厳しい気象条件であった。墜落時の写真によると大雪であった。「風が強く流された機体があった」とミッションレポートに記述があった。
◇記者は、3番目に墜落したパイロットの兄弟を米国アーカンソー州に訪ねた。首都ワシントンDCの国立公文書館には機密文書があった。「ヒューバートコーズマイヤー操縦士死亡」
11才年下の弟さん談「1945.10.2に電報で軍から連絡を受けた。1947.4墜落の原因については家族に詳細な説明はなかつた」
◇インディアナ州オシアンにはB29の機関士として爆撃に参加した人がいた。エド・ゲッツさん。
Q:東京以外の目標はあったか
A:いや違う目標があったとは思えない。すべての機がひとつのターゲットを狙っていた。すなわち「東京」だ。
Q:強風で飛行路をそれる可能性はあったか
A:いやそれはない。もし風が強すぎたら作戦を中止していたはずだ。あの時の爆撃の高度では風は問題ないはずだ。
Q:東京へゆかず(まちがって)真っ直ぐ墜落箇所に向かった可能性は
A:それもないだろう。爆撃で東京が燃えていたら見えるからね。
ゲッツ氏の仮説
「鍵となるのは高度5000フィート(1500m)。いままで10000mから実施していた爆撃を東京では1500mという低空から行うよう命令されていた。攻撃の精度を高めるためである。一方爆撃で生じた火の勢いはすさまじく熱風は飛行機の高さまで巻き上がってきたという。爆撃したらすぐにその場を出ようとした。しかし熱風がすごくてね、方向性を失ってひっくり返る機体もあった」
「熱風の衝撃でレーダーが壊れ方向感覚を失った可能性がある」。ゲッツさんはそう指摘した。「われわれはレーダーだけで爆撃しているようなもの。そしてレーダーは壊れることもあった。オペレーターもナビゲーターもクルーにいて各自レーダースコープをもっていたがどちらかが方角をまちがったかもしれないし熱風にあおられて北に進んだのかもしれない。その状況に気づく前に山に突入したのかもしれないね」。
Q:もしレーダーが壊れたら
A:そうなったら星にたよるしかないね。
◇不忘山は1700m、飛行高度より200m高い。
◇アメリカの資料をさらに調べると、コーズマイヤー機の出発時間がわかった。19時15分、先頭の機体が出発してから約1時間後である。着いた時は爆撃が本格化している頃で爆風にあおられる可能性は十分にあった。
◇爆撃の熱風にあおられレーダーは壊れる、あたりは煙に覆われ方向を見失う。夜で視界が効かない、時速500kmの時速は30分で不忘山に達する。高度は命令されていた1500m、あたりは吹雪でなにも見えず、そして墜落・・。そんな仮設が成り立つのではないか。
◇「東京大空襲」の著者でB29研究の第一人者でもある早乙女勝元さんの話。「東京大空襲では爆撃機は超低空で入ってきているのでナビゲーターはレーダーに不慣れだった。日本に来るまでの高度も低い。理由は爆撃目標に近い・・というだけでな、燃料節約の目的もあった。B29の航続距離は5500km、マリアナ~東京往復は4600km、爆撃するための滞空時間も必要、となるとギリギリの燃料である。東京を爆撃したらすぐに帰らないとマリアナまで帰れない。東京から不忘山までさらに300km、燃料を考えてもまた深夜で偵察が出来ないことからも3機が東北を目標にしていた可能性は低い」
◇3番目に墜落したコーズマイヤー機の足取りは見えて来た。しかし、1番機・2番機の資料をみつけることは出来なかった。
◇早乙女氏は、東京に向けて出発したB29機325機のうちなにをしていたのか資料のないものが40機にのぼると指摘する。「70年経っても謎は解けないのが戦争の後遺症のすさまじさを示している。これから解けるという保証はないけれどもアメリカ側の資料は出尽くした感がある。でも真相はわからない、戦争の持つ特質ではないか」
◇墜落から70年、地元住民は山の中腹に不忘の碑を建ててアメリカ兵を弔ってきた。なぜ当時敵だったアメリカ兵を弔うのか、地元には「恩讐を超えて」という言葉がある。戦争が終われば敵も味方もない、そんな思いだと言う。
◇しかし住民も年を重ねて山に登ることが難しくなってきた。戦後70年の昨年ふもとの湖のほとりに「不忘平和記念公園」の建設が計画された。8月2日公園は完成した。
◇公園の石碑には亡くなった米兵34名の名前が刻まれている。そばには日米友好の象徴ハナミズキの木も植えられ式典には日米関係者500名が参列した。
今度南蔵王長老湖を訪ねる機会があればぜひ立ち寄って71年前の事故に思いをはせて黙とうをささげたい。
その① 3月10日は戦前は「陸軍記念日であった」
wikipediaによると
【陸軍記念日】
戦前日本では、3月10日が陸軍記念日であった。これは、1905年3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日である。1906年(明治39年)3月10日が第1回陸軍記念日である。[1]
1945年3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になって事実であるかのように出回っていた。日本には事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認できない
■奉天とは現在の瀋陽である。私の中学時代の社会科ではシェンヤンと習ったと思う。清朝時代から栄えた中国東北部の大都市である。日露戦争時はロシアの軍事拠点であったようだ
■「陸軍記念日」を身をもって知っているのはおそらく90歳以上の人だけである。その昔話を聞く人もいなくなりそのうち話題にもならなくなるだろう。時は流れる。
その② 昭和20年3月10日 東京大空襲
【ばあちゃんの日記から】
先年亡くなったおばあちゃんの遺品の中に戦前の女学生時代から続く「日記」があった。日々の生活で特に自分の思いや生活のこと、さらに世間の出来事も記している。食事の献立もメモしてある。もしかしたら民俗学的な資料に値するかも・・・ソレホドノモノデワナイカ・・・?
その中から、昭和20年3月10日の記述に東京大空襲が読み取れた。当時おばあは静岡県清水市に住んでいたが東京に向かうB29の大編隊の様子がわかったようだ(生前直接聞いたこともある。)。ただし、達筆で文字がよく読み取れない。和歌も記しているようだがさっぱりわからない。残念である。
この日の献立は、五色煮(どんなものか?)、いも汁物。質素だ。
東久爾宮の第一皇子誕生との記述もみえる。昭和22年に皇籍離脱しているがこの人昭和天皇の孫にあたる。皇族復帰の話でよく話題になる家か。その第一皇子は昨年3月20日に亡くなっている。その子供に男子がいる様だ。
昭和20年3月10日 ばあちゃんの日記

【関連した話】
東京大空襲の日、蔵王不忘山に米軍機墜落事故 H28.03.10の弊ブログ記事を復刻
◇本日3月10日は、およそ10万人が犠牲となった東京大空襲から71年目にあたる。東京の空襲は何回も行われたがこの日のものが規模が大きく犠牲も大きかった。「歴史上最大の火事」ともいわれたりする。
◇1945年3月10日、東京大空襲の日に東京から300kmも離れた宮城県の不忘山に米軍の爆撃機B29が墜落した。それも3機である。乗組員34人は全員死亡。
◇東京の爆撃のあとなぜここまで飛んで来たのか、またどこへ向かっていたのか、墜落の原因はなにか、すべて不明である。
◇このことにスポットをあてて解明を試みた興味深いテレビ番組が昨年放映された。手元にあるメモで番組を追ってみる。放送局はKHB、番組名は「テレメタリー2015、蔵王に消えたB29~墜落の謎 70年目の真実」。
◇蔵王連峰の最南端に位置する不忘山の標高は1705mである。この山に71年前に爆撃機B29が3機墜落したことが今も語り継がれている。地元宮城県七ケ宿町や白石市には当時の状況を覚えている人たちがいる。
◇B29は確かに墜落していた。墜落した箇所には今でも残骸の破片が残っている。
◇当時の新聞には国民感情を考慮した記事が掲載されている。
◇墜落機は30分から1時間の間隔を置いて来ている。編隊を組んで来たわけでない。3機はバラバラに来た。
◇なぜ、東京から遠く離れた不忘山に、時間がずれて墜落したのか。
◇米軍の残留物の中に東北地方の地図があり山形市に○印がつけられていた。山形市が目的地か。
◇GHQのレポートによると3機は別の部隊に属する。出発地はグァム・サイパン。目的地はいずれも「東京」、墜落の原因は悪天候となっていた。
◇当日の天気は北西風が強く吹き寒気が入っていた。飛行機にとっては厳しい気象条件であった。墜落時の写真によると大雪であった。「風が強く流された機体があった」とミッションレポートに記述があった。
◇記者は、3番目に墜落したパイロットの兄弟を米国アーカンソー州に訪ねた。首都ワシントンDCの国立公文書館には機密文書があった。「ヒューバートコーズマイヤー操縦士死亡」
11才年下の弟さん談「1945.10.2に電報で軍から連絡を受けた。1947.4墜落の原因については家族に詳細な説明はなかつた」
◇インディアナ州オシアンにはB29の機関士として爆撃に参加した人がいた。エド・ゲッツさん。
Q:東京以外の目標はあったか
A:いや違う目標があったとは思えない。すべての機がひとつのターゲットを狙っていた。すなわち「東京」だ。
Q:強風で飛行路をそれる可能性はあったか
A:いやそれはない。もし風が強すぎたら作戦を中止していたはずだ。あの時の爆撃の高度では風は問題ないはずだ。
Q:東京へゆかず(まちがって)真っ直ぐ墜落箇所に向かった可能性は
A:それもないだろう。爆撃で東京が燃えていたら見えるからね。
ゲッツ氏の仮説
「鍵となるのは高度5000フィート(1500m)。いままで10000mから実施していた爆撃を東京では1500mという低空から行うよう命令されていた。攻撃の精度を高めるためである。一方爆撃で生じた火の勢いはすさまじく熱風は飛行機の高さまで巻き上がってきたという。爆撃したらすぐにその場を出ようとした。しかし熱風がすごくてね、方向性を失ってひっくり返る機体もあった」
「熱風の衝撃でレーダーが壊れ方向感覚を失った可能性がある」。ゲッツさんはそう指摘した。「われわれはレーダーだけで爆撃しているようなもの。そしてレーダーは壊れることもあった。オペレーターもナビゲーターもクルーにいて各自レーダースコープをもっていたがどちらかが方角をまちがったかもしれないし熱風にあおられて北に進んだのかもしれない。その状況に気づく前に山に突入したのかもしれないね」。
Q:もしレーダーが壊れたら
A:そうなったら星にたよるしかないね。
◇不忘山は1700m、飛行高度より200m高い。
◇アメリカの資料をさらに調べると、コーズマイヤー機の出発時間がわかった。19時15分、先頭の機体が出発してから約1時間後である。着いた時は爆撃が本格化している頃で爆風にあおられる可能性は十分にあった。
◇爆撃の熱風にあおられレーダーは壊れる、あたりは煙に覆われ方向を見失う。夜で視界が効かない、時速500kmの時速は30分で不忘山に達する。高度は命令されていた1500m、あたりは吹雪でなにも見えず、そして墜落・・。そんな仮設が成り立つのではないか。
◇「東京大空襲」の著者でB29研究の第一人者でもある早乙女勝元さんの話。「東京大空襲では爆撃機は超低空で入ってきているのでナビゲーターはレーダーに不慣れだった。日本に来るまでの高度も低い。理由は爆撃目標に近い・・というだけでな、燃料節約の目的もあった。B29の航続距離は5500km、マリアナ~東京往復は4600km、爆撃するための滞空時間も必要、となるとギリギリの燃料である。東京を爆撃したらすぐに帰らないとマリアナまで帰れない。東京から不忘山までさらに300km、燃料を考えてもまた深夜で偵察が出来ないことからも3機が東北を目標にしていた可能性は低い」
◇3番目に墜落したコーズマイヤー機の足取りは見えて来た。しかし、1番機・2番機の資料をみつけることは出来なかった。
◇早乙女氏は、東京に向けて出発したB29機325機のうちなにをしていたのか資料のないものが40機にのぼると指摘する。「70年経っても謎は解けないのが戦争の後遺症のすさまじさを示している。これから解けるという保証はないけれどもアメリカ側の資料は出尽くした感がある。でも真相はわからない、戦争の持つ特質ではないか」
◇墜落から70年、地元住民は山の中腹に不忘の碑を建ててアメリカ兵を弔ってきた。なぜ当時敵だったアメリカ兵を弔うのか、地元には「恩讐を超えて」という言葉がある。戦争が終われば敵も味方もない、そんな思いだと言う。
◇しかし住民も年を重ねて山に登ることが難しくなってきた。戦後70年の昨年ふもとの湖のほとりに「不忘平和記念公園」の建設が計画された。8月2日公園は完成した。
◇公園の石碑には亡くなった米兵34名の名前が刻まれている。そばには日米友好の象徴ハナミズキの木も植えられ式典には日米関係者500名が参列した。
今度南蔵王長老湖を訪ねる機会があればぜひ立ち寄って71年前の事故に思いをはせて黙とうをささげたい。
Posted by OOAKAGERA at
14:05