2019年12月05日
12月5日(木)の日記 柳生博氏の話 里山礼讃 野良仕事礼讃
◇私の「お休み中」の滞在先は毎晩の消灯時刻が決まっていて部屋も枕元も明かりが消される。私は寝つきはすこぶるよい方で、明かりを消されるとストンと寝てしまう。
◇しかしここで問題がある。ひと眠りするともう睡眠は不要で起きてしまう。朝方3時過ぎには目が覚めてもう睡眠は不要である。しかし明かりはなし、動きはとれない。そうなると普段は全く聞かない深夜放送のラジオを聞いて時間をつぶすことになる。前々からよく話に聞いていたNHKのラジオ深夜便が面白そうなのでしぜんに聞くことになった。
◇ラジオ深夜便は、毎日夜11時から翌朝の5時までベテランアナウンサーがアンカーとなって放送している。そして時間ごとにほぼテーマが決まっているようである。3時台は日本の音楽(70年代から80年代の歌謡曲とか)、4時台はインタビュー。
◇そんなわけで私はほぼ3時台後半から聞いていたが、先日は柳生博氏へのインタビューを放送していた。柳生氏は先ごろまで日本野鳥の会の会長(現在は名誉会長)、大分前には長いことNHKテレビの「生き物地球紀行」のナレーターをしていて鳥や生き物の楽しい話が聞けるのではと期待して聞いた。
◇暗い中で手元を見ないでボールペンでメモしたがそれなりに判読できた。以下はインタビューの概要
<柳生博氏のはなし>
(ラジオで聞いたままを記したので聞き間違いがあるかもしれません。念のため)
NHKラジオ深夜便 11月30日(土) 午前4時台
「明日への言葉」講演会 確かな未来は懐かしい風景の中にある (山梨県甲斐市で開かれたラジオ深夜便のつどいでの講演から)
■山梨県、八ヶ岳のふもとに生活の拠点を置いている柳生博氏の話
■昭和12年生まれ。82歳。茨城県霞ケ浦のほとりで生まれ育った。13歳の時初めての一人旅で訪れたのが八ヶ岳。
■24歳の時、今井正監督の映画「あれが湊の灯だ」で俳優デビュー、以来数々の映画やテレビドラマばかりでなく、テレビのドキュメンタリー番組のナレーターや司会などでも活躍した。
■40歳を過ぎた頃、かつて訪れたことのある八ヶ岳のふもと、北斗市小泉町に家族で生活の場を移した。自ら雑木林を伐採・手入れし、カフェやギャラリーのあるオープンスペースをオープンして今年で30年になる
■今も自然に囲まれ、野良仕事に携わる柳生さんがその暮らしから得た人生哲学をおうかがいした
(以下◆は柳生さんの言葉)
◆八ヶ岳は今紅葉の盛りである。今年は紅葉が1週間ほど遅れている。時期だけでなく朝昼夜でも印象は変わる。
◆僕の森は、北側に八ヶ岳連峰・赤岳のふもと1600mの地にある。南には富士山、西には南アルプスが望める。山々に囲まれたところである。
◆今の時期の野良仕事は「枝打ち」である。高い木にはしごの先をくくり付けて枝を切っている。若い者は心配するが今でもハシゴに乗っている。
◆今でこそ柳生の森は美しくなったが、引っ越してきたときは放置された人工林であった。間伐していない森は日の光が地面に届かず花も咲かず、虫もおらず、鳥も来ない陰鬱な「沈黙の森」であった。手入れされていない人工林を何回も切った。最初の年は6回くらい切った。木を切って光が地面に届くとスミレやマイズルソウが咲きだす。虫が出てきて鳥も来る。
◆40年前、(死んだ)長男が小学校4年生、次男が幼稚園の時から始めて、植えたり手入れをした木の数は1万本をこえている。
◆紅葉が終わり葉が落ちると鳥が来る。窓の近くには鳥の好きな木を植えている。冬の間にいろいろな小鳥が移動してくる。混群が来る。雪の積もった中に真っ赤なオオマシコがくると赤ワインが欲しくなる。なんたって山梨県だから・・・。鳥をめざして全国から人が来てくれる。
◆赤岳が壁になって、あまり強い風は吹かない。
◆4月になるとムズムズと地面が動き出す。カタクリの芽が出てくる。地面のわずかな盛り上がりが見える。あの興奮は他にない。
◆孫が7人いる。うちの孫のやること。僕が朝寝ていると起こしに来る。「じいじいカサコソやろうよ」と言う。雑木林に行って葉が積もっている地面を歩くとカサコソ音がする。そこに子供は飛び込む。そしてその中からダンゴ虫やミミズを捕まえる。ミミズは放置された人工林の時にはいなかった。孫は30cmくらいあるミミズを手首に巻いて引っ張って口でくわえてなんてことをする・・・かわいい。
◇40年前に移住して森を再生しようと考えたきっかけは?
◆「野良仕事」をやりたかった。かつて日本人はあらゆる人が野良仕事をした。そして人間のすぐそばにたくさんの生き物がいた。こんなに人と生き物が一体で暮らしているところはない。里山である。棚田・田んぼの用水など人の手が入って自然と一体となってバランスよく回っていた。
◆東京で暮らしている中、生活を変えようと思う出来事があった
◆そのころ役者としてとにかく忙しかった。テレビ小説の「一番星」では茨城出身の野口雨情の役をやり、クイズハンターの司会をし、ドラマに出てというわけで年間700本のテレビに出るような生活だった。そうするとつらいことがあった。カミサンと会えない、子供とも会えない。長時間家に帰れない。
◆ある日私がたまたま早く帰って、疲れて玄関で寝ていたら長男が帰って来た。見ると顔に血が流れていた。頭も切れていて「いじめ」に会っていた。お前のパパは昨日人を殺していたではないか、女といちゃいちゃしていたではないかといったようないじめを受けていた。
◆そんなときに考えたのは「このままでは我が家は溶けてしまうのではないか」ということだった。どうしたらよいか。
◆私は小さいときはじいさん子だった。じいさんは剣道7段の剣士だった。じいさんは、私がうじうじしているときは「野良仕事をやれ」と言っていた。もう終わったというと、ならだれかの手伝いをしろといわれた。
◆柳生の家はいろいろ家訓があつた。そのうちの1つに13歳の夏にひとりで1ケ月ほど旅に出ることというのがあった。どこにいってもよいからとにかく一人で旅をしなければならない。私は旅先を考えた。茨城の家は関東平野の平な土地に、みんな善い人ばかりがなかよく幸せに暮らしている。もっとドラマチックなところに行きたいと思い地図を見て行き先を決めた。地図を見るのが好きだった。そして探し出したのが山梨県の八ヶ岳のふもと、小海線沿線であった。等高線に沿ってウネウネと行く列車、人も住んでいないような。白樺を見たい、これは関東にない。日本海側にもない、山にはある。
◆乗った小海線の列車、滑って動かないことがあった。線路上にヤスデが異常に発生し滑っていた。客はみんなで降りて列車を押して動かした。なんてことがあった。こんなドラマチックなところはないと気に入った。
◆しかし13歳の少年、夜は駅のベンチで寂しかった。ホームシックである。泣きながら寝ているとホトトギスが泣いていて悲しさが身に染みた。そんな中、たどり着いたのが今まさに住んでいる森の近くであった。森の中、生き物の中に入ると柳生少年は自分の命の重みに気づく。体重がまるでタヌキやヤマドリのように軽くなったように感じた。どうしたら彼らと仲良くできるかそんなことを思ったことを鮮明に覚えている。
◆このあたり、駅前に開拓の記念の石碑があったりする。戦後に入植した人達がおり、農業をしたことがないインテリが掘っ立て小屋を建てて住んでいたりした。近くの開拓者の人が声をかけてきた。そんな家に呼ばれた。ドラム缶の風呂に入れてもらった。気持ちよかった、星がきれいだった。夕食のジャガイモはまずかった。家は粗末だが本棚に本が並んでいた。いろんなイデオロギーの本だった。本を読ませてもらった。何か手伝うことがないかというと、逆にいろいろ尋ねられた。農作業をいろいろ教えた。
◆そこで学んだことは大きかった。
◆孫に好かれる方法は、農作業の体験をさせてみること。おじいちゃんはスーパースターになれる。
◆うちの孫は生物学・生き物に関する学問をしている
◇子供たちに自然に接してもらう方法は親ではなくおじいちゃんの世代の人からかもしれないですね
◆YES、身近なところから地球が見えてくる。生き物だらけの森に子供たちを置くと自然の中にすんなり入り込む
◆僕は昔から、「確かな未来」は里山の存続と思っている。ずっとつづいてきた里山、そこは自然に人間がかかわってきた世界でもまれにみる風景である。いい塩梅に折り合いつけて自然と人間がかかわりあって回っている。懐かしい風景を小さいころからどれだけ持ち続けることが出来るか・・・、
◆長男がやっていた「田んぼの学校」は大都会の30人くらいの親子に野良仕事をしてもらうことをしてきた。その最後に必ず作文を書いてもらった。その中で田植えをしたことを7割くらいの人が「なつかしかったです」と書く。見たことも経験したこともない風景を「なつかしい」と感じるのはなぜか? これはDNAの作用なんだという。
◆おじいちゃんが孫に伝えていかになければならない、一番は「野良仕事」をすることと思う。
◇柳生氏の自然志向の背景がよくわかった。テレビの自然番組のナレーターをやってからの話ではなくもっとずっと前から、小さいときからの体験も背景にあったわけだ。
◇まとめとしては。里山礼讃、野良仕事礼讃ということだろう。
◇売れっ子のタレント生活に疑問を感じ、家庭崩壊を防ぐにはと八ヶ岳への移住を決断したのは尊敬する。なかなか出来ないこと。
◇柳生氏は昔からテレビ界で長く活躍されている縁で脚本家の倉本聰氏とは懇意のようだが、今テレビで昼休みの時間に放映されている倉本氏脚本のテレビ朝日「やすらぎの刻」のモチーフとして柳生氏の話が取り込まれてるように思った。山梨県・原風景といったキーワードが一致しそうだし、大都会でいじめに遭った後、いなかの農作業で回復するストーリーも同じだ。うがち過ぎかも。
◇もうひとつラジオを聞いて懐かしかったのは聞き手の高橋美鈴アナウンサーである。かつて札幌・東京・室蘭と転勤しその人柄と確かなアナウンス技術には定評のあるところだった。おはようにっぽんのキャスターはよかったし、北海道制作が多い自然百景のナレーターもよかった。今は山梨で頑張っておられるようで今回のインタビューも、あちこち飛び回る柳生氏の話を気持ちよくまとめていた。そのうちアンカーとしてラジオ深夜便にこられることを期待です。
◇しかしここで問題がある。ひと眠りするともう睡眠は不要で起きてしまう。朝方3時過ぎには目が覚めてもう睡眠は不要である。しかし明かりはなし、動きはとれない。そうなると普段は全く聞かない深夜放送のラジオを聞いて時間をつぶすことになる。前々からよく話に聞いていたNHKのラジオ深夜便が面白そうなのでしぜんに聞くことになった。
◇ラジオ深夜便は、毎日夜11時から翌朝の5時までベテランアナウンサーがアンカーとなって放送している。そして時間ごとにほぼテーマが決まっているようである。3時台は日本の音楽(70年代から80年代の歌謡曲とか)、4時台はインタビュー。
◇そんなわけで私はほぼ3時台後半から聞いていたが、先日は柳生博氏へのインタビューを放送していた。柳生氏は先ごろまで日本野鳥の会の会長(現在は名誉会長)、大分前には長いことNHKテレビの「生き物地球紀行」のナレーターをしていて鳥や生き物の楽しい話が聞けるのではと期待して聞いた。
◇暗い中で手元を見ないでボールペンでメモしたがそれなりに判読できた。以下はインタビューの概要
<柳生博氏のはなし>
(ラジオで聞いたままを記したので聞き間違いがあるかもしれません。念のため)
NHKラジオ深夜便 11月30日(土) 午前4時台
「明日への言葉」講演会 確かな未来は懐かしい風景の中にある (山梨県甲斐市で開かれたラジオ深夜便のつどいでの講演から)
■山梨県、八ヶ岳のふもとに生活の拠点を置いている柳生博氏の話
■昭和12年生まれ。82歳。茨城県霞ケ浦のほとりで生まれ育った。13歳の時初めての一人旅で訪れたのが八ヶ岳。
■24歳の時、今井正監督の映画「あれが湊の灯だ」で俳優デビュー、以来数々の映画やテレビドラマばかりでなく、テレビのドキュメンタリー番組のナレーターや司会などでも活躍した。
■40歳を過ぎた頃、かつて訪れたことのある八ヶ岳のふもと、北斗市小泉町に家族で生活の場を移した。自ら雑木林を伐採・手入れし、カフェやギャラリーのあるオープンスペースをオープンして今年で30年になる
■今も自然に囲まれ、野良仕事に携わる柳生さんがその暮らしから得た人生哲学をおうかがいした
(以下◆は柳生さんの言葉)
◆八ヶ岳は今紅葉の盛りである。今年は紅葉が1週間ほど遅れている。時期だけでなく朝昼夜でも印象は変わる。
◆僕の森は、北側に八ヶ岳連峰・赤岳のふもと1600mの地にある。南には富士山、西には南アルプスが望める。山々に囲まれたところである。
◆今の時期の野良仕事は「枝打ち」である。高い木にはしごの先をくくり付けて枝を切っている。若い者は心配するが今でもハシゴに乗っている。
◆今でこそ柳生の森は美しくなったが、引っ越してきたときは放置された人工林であった。間伐していない森は日の光が地面に届かず花も咲かず、虫もおらず、鳥も来ない陰鬱な「沈黙の森」であった。手入れされていない人工林を何回も切った。最初の年は6回くらい切った。木を切って光が地面に届くとスミレやマイズルソウが咲きだす。虫が出てきて鳥も来る。
◆40年前、(死んだ)長男が小学校4年生、次男が幼稚園の時から始めて、植えたり手入れをした木の数は1万本をこえている。
◆紅葉が終わり葉が落ちると鳥が来る。窓の近くには鳥の好きな木を植えている。冬の間にいろいろな小鳥が移動してくる。混群が来る。雪の積もった中に真っ赤なオオマシコがくると赤ワインが欲しくなる。なんたって山梨県だから・・・。鳥をめざして全国から人が来てくれる。
◆赤岳が壁になって、あまり強い風は吹かない。
◆4月になるとムズムズと地面が動き出す。カタクリの芽が出てくる。地面のわずかな盛り上がりが見える。あの興奮は他にない。
◆孫が7人いる。うちの孫のやること。僕が朝寝ていると起こしに来る。「じいじいカサコソやろうよ」と言う。雑木林に行って葉が積もっている地面を歩くとカサコソ音がする。そこに子供は飛び込む。そしてその中からダンゴ虫やミミズを捕まえる。ミミズは放置された人工林の時にはいなかった。孫は30cmくらいあるミミズを手首に巻いて引っ張って口でくわえてなんてことをする・・・かわいい。
◇40年前に移住して森を再生しようと考えたきっかけは?
◆「野良仕事」をやりたかった。かつて日本人はあらゆる人が野良仕事をした。そして人間のすぐそばにたくさんの生き物がいた。こんなに人と生き物が一体で暮らしているところはない。里山である。棚田・田んぼの用水など人の手が入って自然と一体となってバランスよく回っていた。
◆東京で暮らしている中、生活を変えようと思う出来事があった
◆そのころ役者としてとにかく忙しかった。テレビ小説の「一番星」では茨城出身の野口雨情の役をやり、クイズハンターの司会をし、ドラマに出てというわけで年間700本のテレビに出るような生活だった。そうするとつらいことがあった。カミサンと会えない、子供とも会えない。長時間家に帰れない。
◆ある日私がたまたま早く帰って、疲れて玄関で寝ていたら長男が帰って来た。見ると顔に血が流れていた。頭も切れていて「いじめ」に会っていた。お前のパパは昨日人を殺していたではないか、女といちゃいちゃしていたではないかといったようないじめを受けていた。
◆そんなときに考えたのは「このままでは我が家は溶けてしまうのではないか」ということだった。どうしたらよいか。
◆私は小さいときはじいさん子だった。じいさんは剣道7段の剣士だった。じいさんは、私がうじうじしているときは「野良仕事をやれ」と言っていた。もう終わったというと、ならだれかの手伝いをしろといわれた。
◆柳生の家はいろいろ家訓があつた。そのうちの1つに13歳の夏にひとりで1ケ月ほど旅に出ることというのがあった。どこにいってもよいからとにかく一人で旅をしなければならない。私は旅先を考えた。茨城の家は関東平野の平な土地に、みんな善い人ばかりがなかよく幸せに暮らしている。もっとドラマチックなところに行きたいと思い地図を見て行き先を決めた。地図を見るのが好きだった。そして探し出したのが山梨県の八ヶ岳のふもと、小海線沿線であった。等高線に沿ってウネウネと行く列車、人も住んでいないような。白樺を見たい、これは関東にない。日本海側にもない、山にはある。
◆乗った小海線の列車、滑って動かないことがあった。線路上にヤスデが異常に発生し滑っていた。客はみんなで降りて列車を押して動かした。なんてことがあった。こんなドラマチックなところはないと気に入った。
◆しかし13歳の少年、夜は駅のベンチで寂しかった。ホームシックである。泣きながら寝ているとホトトギスが泣いていて悲しさが身に染みた。そんな中、たどり着いたのが今まさに住んでいる森の近くであった。森の中、生き物の中に入ると柳生少年は自分の命の重みに気づく。体重がまるでタヌキやヤマドリのように軽くなったように感じた。どうしたら彼らと仲良くできるかそんなことを思ったことを鮮明に覚えている。
◆このあたり、駅前に開拓の記念の石碑があったりする。戦後に入植した人達がおり、農業をしたことがないインテリが掘っ立て小屋を建てて住んでいたりした。近くの開拓者の人が声をかけてきた。そんな家に呼ばれた。ドラム缶の風呂に入れてもらった。気持ちよかった、星がきれいだった。夕食のジャガイモはまずかった。家は粗末だが本棚に本が並んでいた。いろんなイデオロギーの本だった。本を読ませてもらった。何か手伝うことがないかというと、逆にいろいろ尋ねられた。農作業をいろいろ教えた。
◆そこで学んだことは大きかった。
◆孫に好かれる方法は、農作業の体験をさせてみること。おじいちゃんはスーパースターになれる。
◆うちの孫は生物学・生き物に関する学問をしている
◇子供たちに自然に接してもらう方法は親ではなくおじいちゃんの世代の人からかもしれないですね
◆YES、身近なところから地球が見えてくる。生き物だらけの森に子供たちを置くと自然の中にすんなり入り込む
◆僕は昔から、「確かな未来」は里山の存続と思っている。ずっとつづいてきた里山、そこは自然に人間がかかわってきた世界でもまれにみる風景である。いい塩梅に折り合いつけて自然と人間がかかわりあって回っている。懐かしい風景を小さいころからどれだけ持ち続けることが出来るか・・・、
◆長男がやっていた「田んぼの学校」は大都会の30人くらいの親子に野良仕事をしてもらうことをしてきた。その最後に必ず作文を書いてもらった。その中で田植えをしたことを7割くらいの人が「なつかしかったです」と書く。見たことも経験したこともない風景を「なつかしい」と感じるのはなぜか? これはDNAの作用なんだという。
◆おじいちゃんが孫に伝えていかになければならない、一番は「野良仕事」をすることと思う。
◇柳生氏の自然志向の背景がよくわかった。テレビの自然番組のナレーターをやってからの話ではなくもっとずっと前から、小さいときからの体験も背景にあったわけだ。
◇まとめとしては。里山礼讃、野良仕事礼讃ということだろう。
◇売れっ子のタレント生活に疑問を感じ、家庭崩壊を防ぐにはと八ヶ岳への移住を決断したのは尊敬する。なかなか出来ないこと。
◇柳生氏は昔からテレビ界で長く活躍されている縁で脚本家の倉本聰氏とは懇意のようだが、今テレビで昼休みの時間に放映されている倉本氏脚本のテレビ朝日「やすらぎの刻」のモチーフとして柳生氏の話が取り込まれてるように思った。山梨県・原風景といったキーワードが一致しそうだし、大都会でいじめに遭った後、いなかの農作業で回復するストーリーも同じだ。うがち過ぎかも。
◇もうひとつラジオを聞いて懐かしかったのは聞き手の高橋美鈴アナウンサーである。かつて札幌・東京・室蘭と転勤しその人柄と確かなアナウンス技術には定評のあるところだった。おはようにっぽんのキャスターはよかったし、北海道制作が多い自然百景のナレーターもよかった。今は山梨で頑張っておられるようで今回のインタビューも、あちこち飛び回る柳生氏の話を気持ちよくまとめていた。そのうちアンカーとしてラジオ深夜便にこられることを期待です。


Posted by OOAKAGERA at
21:00