2021年07月19日

7月19日(月)の日記 街歩き 仙石線の踏切跡めぐり

◇地元宮城野区の街歩きサークルが、地下化でなくなった仙石線の踏切跡を歩く会の参加者を募集していた。面白そうなので参加した。暑い中だったのでいささかバテたがそれなりに楽しめた。
◇仙石線の昔の思い出として断片的に情景が思い浮かぶのは、①苦竹駅前の45号線(仙塩街道)の踏切が立体交差されて駅が地上化される前の渋滞、②夜中に蒸気機関車が貨物を引いて不気味な重量感ある音を立てて通っていたこと、③仙台駅東口(仙石線仙台駅のホームわき)まわりの猥雑した風景、④そして仙台駅から宮城野原あたりの車窓すぐ前に見えた生活臭あふれる家々の景色などである。
◇この日の街歩きコースは、地下化される前の仙石線の踏切跡を訪ねようというもので原ノ町から榴ヶ岡の手前までを歩いた。
◇集合は陸前原ノ町駅前。今はすっかり洗練された都会の駅に生まれかわっているが、昔は小さな平屋の建物がある田舎の駅だった。
◇小学校の修学旅行の出発の集合場所がこの駅前の小広場で、私のクラス担任の先生は志津川の実家が前日に起きた大津波で流され、そちらに帰っていて集合には間に合わないと聞かされていた。しかし、出発直前にタクシーでかけつけて旅行に参加してくれ児童も父兄も感激したのをよく覚えている。
◇大田見踏切跡。国道45号と交差して宮城の萩大通に続くメイン道路にあった。この踏切は「開かずの踏切」として悪名高く道路の渋滞が激しく市東部の住民からは強く立体化が叫ばれていたとのこと。仙石線線路地下化に至った大きな要因らしい。仙石線と立体交差して上を走るJR貨物線には今でも地上の仙石線が通った名残のこ線橋(トンネル?)が残っている。昔々はここに踏切番のおじさんが2人いて電車が通るたびに手動で遮断機を上げ下げし電車に向かって白い旗を振っていた。小さいときここに遊びにいったことがある。電車に向かって一緒に旗を振った思い出がある。今なら考えられないことだが。

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◇下山通り踏切跡。たしか1年間この踏切を通って小学校に通ったはずなのだが、となりの鹿島通り踏切だったかもしれない。踏切は、普通なら上から遮断する竹の棒が下りてくるところだが、ここはなんと地面の中に納まっている折り畳みの、鉄の棒で作られた<柵>が下から上がって来るタイプだった。しょっちゅう故障して通行止めになっていた。早い時点で普通のタイプに取り換えられたと記憶する。「下山通り」という名前は地元ではあまり使われていなかったと思う。
◇(ここでまた話は脱線)。この近くに乳銀杏・八幡様・国立病院(現仙台医療センター)がある。昔このあたりに住んでいた古老に聞き取りしたことがあるが、国立病院から今の東華中学校あたりまでの宮城野原は広々としていて軍の演習場だったという。国立病院側には敵兵役の兵隊が隠れる塹壕があり、敵兵役たちは腹ごしらえのための食べものをかくれて持ち込み小学生たちは塹壕をめぐり食料の余禄にあずかったという。戦前の話である。八幡様(地元ではオハヂマンサマと呼ばれていた)は戦時中に、艦載機グラマンの機銃掃射の的にされて被弾し、あとで見に行ったら神社の樹木に機関銃の弾がささっていたとのこと(今の場所に近い別の場所とのこと)。

 7月19日(月)の日記 街歩き 仙石線の踏切跡めぐり 7月19日(月)の日記 街歩き 仙石線の踏切跡めぐり

◇仙台方面に進む。場所によっては線路のあった痕跡が確認できた。このあたり北側がやや高く段差がある。小さな崖に沿って線路はあったようだ。長町利府断層帯があらわれているのかもしれない。昔の東街道、四谷用水の末端の水路もほぼ同じルートである。
◇宮城野原駅の東側、狭い道にあった東街道踏切。踏切を通っているのが東街道とすると北側ですぐに90度右折することになるが、どこが正しい古道かわからなかった。芭蕉さんも通ったはずだ。
家に帰った後手元にあった大正15年発行の古地図をみたら東街道は旧宮城野原駅北東で曲がって踏切をわたり現東華中の敷地を突っ切り南へ向かうルートの様だ。

 7月19日(月)の日記 街歩き 仙石線の踏切跡めぐり 7月19日(月)の日記 街歩き 仙石線の踏切跡めぐり

◇荒浜街道踏切跡。ここは広い道。野球場から坂道が上がって来て宮城野中学校方面に通じる途中。斜めに交差していた。
(また脱線) 昔東京オリンピックの前年に陸上競技場で競技会があり学校から駆り出されて見に行った。その帰り、当時のスター選手依田郁子さんが取り囲まれたファンを振り切りこの坂を見事なスピードで駆け上がっていった情景を覚えている。
◇なぜここが「荒浜街道なのか」と参加者からの声。荒浜街道がどこを通っているのかだれもわからない。これも家で古地図を見てみた。大正元年発行の地図に荒浜街道の文字がみえるがどうつながっているのかわからない。宮城野原が陸軍の演習場となる前に街道があったものと思う。基本的には現在の県道137号(荒浜原町線)に近いルートなのであろうと想像できる。県道を終点から起点まで逆走してみると以下の通り。国道45号五輪一丁目交差点(宮城野中の近く)→仙石線荒浜街道踏切跡通過→陸上競技場前交差点を右へ→東華中前の交差点(総合運動場入口)を左へ(新寺通り・産業道路)→貨物線こ線橋を通過→4号仙台バイパス六丁目交差点を直進→六丁目西町交差点を右折し直進→ケーヨーデイツー前を左折(ここまでくると今でも「荒浜街道」と呼ぶ人は多い→七郷小・七郷中前を通過→笹屋敷の集落を経て→県道10号(塩釜亘理線)を越えたら旧荒浜の集落である。道路はどんづまりの深沼海岸まで続く。というわけで随分曲がりくねった道である。ひと昔前には原町から(荒浜より遠い)閖上の花火が見えたようだし明治時代には島崎藤村が仙台駅東口の下宿屋から荒浜の海鳴りを聞いたというから心情として荒浜は近い町でありそこにつながる荒浜街道も身近な存在だったのかもしれない。荒浜の街は東日本大震災でなくなってしまった。悲しい話である。

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◇本日の街歩きコースはここまで。仙台駅側のコースもあるらしい。土地勘はあるつもりだったが昔々のうろ覚えの思い出そして最近のあまりの変貌ぶりで方角がなかなかピンと来ずとまどうことが多かったが、懐かしい思い出に浸り十分に楽しめた。

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Posted by OOAKAGERA at 16:32 │ざれごと たわごと仙台まち歩き

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