2月25日(木)の日記 東日本大震災10年目の振り返り①

OOAKAGERA

2021年02月25日 21:14

来月11日は東日本大震災から10年目にあたる。ついこの間のように思えるがもう10年もたったのかと感慨を覚える。10年前の当時の記録を振り返る。日付順に適宜分割してアップ。

【2011年3月15日(火)の日記】 無事です
このブログを愛読していただいている皆様へ
◇アップが遅れましたが、3月11日に発生した東北関東大震災で、著者および家族と住居は無事です。幸い津波の被害にもあいませんでした。ライフラインはまだ完全に復旧していませんが自分の家で就寝できています。
◇鳥見ではしょっちゅうお邪魔して身近に思っている海岸部の各地での地震・津波の災害はあまりに大きく愕然となり言葉を失います。
◇被災されたみなさまに心からお見舞い申しあげます。
◇取り急ぎ安否の報告でした。
写真は震災当日東松島市から帰宅途中、利府街道利府町あたりの渋滞状況
 


【2011年3月16日(水)の日記】 水道が復旧
◇この場を借りて、身のまわりの地震被災後の復旧状況をポツリポツリ記します。
◇水道が復旧した。これで電気と水道が活きた。
◇ガスは、仙台市ガス局の供給ターミナルである仙台港の設備が壊滅的損壊で復旧はまだまだとのこと。新聞には新潟からのパイプラインの健全性を見た上で・・と出ていたがどうなるか。地震翌日にはガス局の人が来て点検後、外の元栓を閉止していった。
◇電気の復旧は早かった。14日早朝に復旧。街の中心部から夜の照明が活きてきているのがわかった。電気の復旧で、固定電話とネットも一応使用可能となる。
◇ケータイは地震発生直後にメールは送信できたがその後しばらくは使用不能状態、14日から少しよくなった。本日晩は大分スムーズになった。
◇地震翌日にはホームセンター、スーパーに必需品を購入しようとする人の列、すぐになくなっていた。
    

 

【2011年3月16日(水)の日記】 水道 その②
◇地震により、水道はストップ。ただし、わが家は集合住宅で高架水槽方式のようで当日夕方ややきたなくなりつつあったがまだ水が出た。これを浴槽にためた。これは大正解であった。手洗い・トイレに使えた。
◇かつて阪神淡路大震災の時、神戸で被災した人が姫路のわが家の隣に避難してきたときトイレの水が流れると言って涙を流していたのが思い出された。
◇我が家の近くの給水所は東仙台中学校である。12日の朝方様子を見に行った時の状況。どうも校庭の地下に飲料水のプールがあるようで手押しのポンプ(井戸)でくみ上げる方式。まだあまり人は並んでいない。
  

◇12日午後に再度様子を見に行くとものすごい行列。しかも水を入れる容器を準備しなければならないが水用のポリタンクは手元にない。当面はしのげるので、この日はあきらめ。ホームセンターにポリ容器を探しにゆくととっくに売り切れ。困った。
◇13日、水の容器として思いついたのがプラスチックの衣装ケースの箱や大きい布袋の内側に厚めのポリ袋を入れて水を受けたら何とか運搬できそう。これを準備して東仙台中へ車で行く。そしたら昨日以上にとんでもない長い行列。これは待ち時間がもったいないと判断。
   

◇携帯電話は発信がまったくきかない。仙台に住む親戚の安否が気になるので直接訪ねる(親戚は無事)。するとなんとここの地域の水道は活きていた。(電気も活きている)。近くの避難場所指定公園の水道が出るという。助かった。ここで水をもらう。
◇食器はラップやアルミホイールでつつんで使用し、洗浄は省略するのがよいとの話をラジオできいたので実行。これは効果大。
◇15日、我が家のブロックの両隣のブロックの水道が活きた。我が家の復旧も近いか。
◇16日、東仙台中を覗く。給水車からの給水になっていた。水道が活きたエリアがあるせいか列は短い。給水車は他県からの応援。午後水が出だした。うれしい。
  

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