2015年02月27日

2月27日(金)の鳥見 今週の振り返り

総括
 ・暖かくなった日が続いたが、猛禽類はまだ多くは滞在している

【今週の「みーつけた」一覧】
  

【記録写真】
◇カンムリカイツブリ、夏羽の個体があらわれている
◇ダイシャクシギ、今年も越冬中。あちこち移動しているみたい
◇ハマシギの群れ、干潟をあっちにいったりこっちに来たり
◇ミサゴ/ 実はこれは結構内陸のダム湖の近く。
     

◇ハイイロチュウヒ♀/ 神出鬼没、突然にぎやかなエリアに現れたりする
◇オオタカ/ サービス満点、頭上を何回も旋回
◇ケアシノスリ/ まだ滞在中 (2枚)
     

◇チョウゲンボウ/ 今週も元気に飛び回っていた
◇マヒワ/ 移動しているようだ。今週は新しい場所で観察できた
◇オオジュリン / 干潟のアシ原にて
    

【風景写真】
◇海岸に大波が打ち寄せていた。高倉健サンのヤクザ映画の冒頭に出てくる「東映」の画面を思い出した。合掌。
    


Posted by OOAKAGERA at 20:52

2015年02月23日

2月23日(月)の日記 スキージャンプ世界選手権

◇去年の今頃はソチオリンピックでの日本選手の活躍に沸いたが今年は世界選手権の年で、現在スエーデンでノルデイックスキーの世界選手権が開かれている。
◇ジャンプ女子個人で伊藤有希選手が堂々の銀メダルを獲得、おめでとう。今シーズンはいまひとつ調子に乗れないでいたが、晴れの世界選手権でのメダルは見事
◇昨晩はジャンプの混合団体があった。男子2名、女子2名が国ごとのチームを組んで戦う。それぞれ2回飛ぶ
◇日本チームは前回大会(2年前)、金メダルを獲得している。よってチャンピオンであり、ゼッケンの番号表示がない。名誉あるゼッケンなのである。
◇男子は葛西・竹内、女子は高梨・伊藤の布陣で臨んだ日本チームは、頑張ったがドイツとノルウェーに大きく差をつけられて3位だった。前回日本は、女子2名の活躍が光っての優勝だったが、今回は各国の女子のレベルがアップし差がなくなった。そんな中での銅メダル、立派なもの。
◇4人とも爆発的な飛躍がなかったのが残念だったが、それでも高梨と竹内の頑張りが目立った。
◇個人的に気になっている土屋ホームチームの葛西と伊藤はそれなりに頑張ってくれた。伊藤さんはこれでメダル2個、よかったね。  


Posted by OOAKAGERA at 18:44

2015年02月20日

2月20日(金)の鳥見 今週の振り返り

総括
 ・ノスリをはじめ冬の猛禽たちがまだ頑張っている。
 ・今回から機材とその操作員が増えた。超望遠コンデジのためし撮りをしてみた。性能なかなかのもの。

【今週の「みーつけた」一覧】
  

【記録写真】
◇オシドリが凍結する沼から川に移動しているようだ(2枚)
◇変なマガモ。ハイブリッドと思う
◇トモエガモ/ ここには、数が増えたり減ったりしながらほぼいつもいる
     

◇キンクロハジロ/ 川の中で一列に整列。キオツケーッ!
◇ケアシノスリ/ 潤沢にエサがあるとみえ居座っている
◇川の常連カワセミ
◇にぎやかな声をあげながらアカゲラが飛んできた
     

◇上空をハヤブサが横断
◇モズが枯れ木で・・餌探し?
◇ムクドリ/ ホシムクドリをみかけなくなって「タダムクドリ」
◇ジョウビタキ/このあたりは新機材の撮影テスト
     

◇カヤクグリ/相変わらずジミーにしていた
◇マヒワが群れでいたり、カワラヒワの中に交じっていたり(場所は異なる。計3枚)
      

◇崖の下にベニマシコの小群
◇同じくミヤマホオジロの♂♀
      


Posted by OOAKAGERA at 22:03

2015年02月16日

2月16日(月)の日記 伊達邦成公の北海道開拓の話

だらだらと長文です。時間のある方のみ読んでください。

◇テレビ、NHK BSプレミアム/英雄たちの選択「もうひとつの明治維新~敗者・伊達家 北海道開拓への苦闘~」をみた。興味ある内容で、じっくり楽しんだ。
◇東日本大震災の後、北海道伊達市の支援を受けて宮城県の津波被災地亘理町のイチゴ生産者が移住した。伊達市と亘理町のつながりは遠く明治維新の頃までさかのぼる。

◇明治元年、戊辰戦争で官軍に敗れた東北諸藩。中でも盟主・仙台藩の運命は過酷だった。領地は62万石から28万石へ。一門の重臣、亘理の伊達邦成(くにしげ)は、家臣団とともに手つかずの荒野北海道の開拓を決断する。寒さや飢えと戦い、有珠郡(今の伊達市)を一大農業地へと変えた邦成たち。それは北海道開拓の手本とされ、明治25年には民間人で初めて明治天皇の勲四等瑞宝章・叙勲を受けた。敗者が実現させた「もう一つの明治維新」の姿を浮き彫りにする。→これ、番組の宣伝文句でした。
◇明治中期、当時のベストセラー雑誌「太陽」が選んだ、「明治十二傑」には伊藤博文・福沢諭吉等そうそうたるメンバーと並んで、男爵・伊達邦成(農業家)の名前がある。仙台藩亘理伊達家当主・伊達邦成である。<北海道の開拓に従事した多くのものが、志半ばで挫折する中、伊達邦成の開拓地は、小さなアメリカと言えるほどの偉業である>。北海道開拓の先駆者として顕彰された伊達邦成。
◇邦成28歳、幕末の動乱の世。慶応四年、戊辰戦争に敗北した仙台藩は、新政府の処罰を受け2万人と言われた家臣の大量解雇を余儀なくされた。邦成は自らの家臣を救い、朝敵の汚名をはらすため、北海道開拓に活路を見出した。しかし新政府の一方的な政策に邦成は翻弄される。
◇苦心の末開拓した土地の返上、さらに誇りだった武士の身分の剥奪。そんな中でなぜ邦成たちは開拓に成功することが出来たのか。

◇江戸時代、北海道は蝦夷地と呼ばれていた。アイヌの人々が暮らす北の大地。人々が入植するようになったのは、明治維新後である。1868年戊辰戦争勃発。新政府軍と旧幕府軍が衝突した戦いである。新政府軍が勝利し、本州の制圧に成功した。そして新政府の目は、北海道へと向けられた。主な理由は、ロシアに対する危機感であった。樺太に軍を派遣しさらに南下しようとするロシアに対抗し、新政府は北海道へ移民を送って開拓させ、日本の領土であるという既成事実を作ろうとした。
◇新政府の中心人物は、岩倉具視。その構想は開拓者を移民させることだった。戊辰戦争時、同盟して新政府軍に対抗した奥羽の人たちがとくにその対象とされた。自由に土地を離れることのない時代、移民を送ることは困難で不可能に近かったが反逆者を処罰するという意味でも北海道に移し、開拓させようとしたのである。
◇62万石だった仙台藩は、その盟主だったために、28万石に減らされた。さらに藩の南側は、南部藩の領地とされてしまった。宮城県の南部にある亘理町、幕末まで藩の重臣亘理藩伊達家が治めていた。戊辰戦争当時の藩主は、伊達邦成。その支配地は、伊達家の家臣最大の2万4000石であった。
◇しかし敗戦によって支配地を失い、わずか米130俵の俸禄しか与えられない身分に転落してしまった。これでは一人の家臣も養えない。邦成は直属の家臣1300人の身の振り方を考えなければならなかった。家臣たちはきびしい現実を突きつけられた。伊達家家臣の身分を、武士の身分を捨て南部家の農民となるか、他を頼って亘理を出ていくか、二つの選択肢であった。
◇東北が制圧された後も、旧幕府勢力の戦いは北海道で続いていた。1868年10月榎本武揚が函館を占拠、新政府軍相手の箱館戦争が始まった。
◇ある日、家老だった田村顕允(常盤新九郎)が邦成に進言した。「新政府は、必ず北海道開拓に着手します。邦成公自ら家臣を率いて移住し、開拓の先駆けになれば、朝敵の汚名を受けた仙台藩人の冥加にかなうでしょう。」
◇①帰農か、②北海道の開拓か、邦成は悩んだ。箱館戦争が終結していないのにこの提案を受け入れるか?
◇10年ほど前、江戸幕府は東北諸藩に蝦夷地の支配を任せていた。仙台藩は、白老を拠点とし、300人の藩士を派遣していたが、戊辰戦争勃発にともないなし崩し的に撤退を余儀なくされた。
◇この頃新政府の処罰に不満を持つ藩士たち600人が蜂起し、榎本たちと戦おうと箱館への逃亡を企て、邦成自ら兵を挙げ鎮圧にまわっていた。邦成は新政府に不満を募らせる家臣たちに危機を覚えるようになってきていた。
◇田村は進言する。「我らには、1,362戸、男女7,854人の恩顧譜代の家臣がいます。 この人材こそが資本となるでしょう。」
◇邦成は、ついに北海道開拓を決断した。明治2年5月、新政府の許可を得ようとし申し出、箱館戦争が新政府軍の勝利に終わった2か月後邦成に北海道支配の命が下りた。
◇支配を認められたのは、胆振国有珠郡-現在の伊達市である。有珠山の火山灰に覆われ農業には不向きとされてきた土地である。
◇この頃、諸藩や士族たちに北海道開拓の統治が下りていた。財政がひっ迫していた新政府は、分割統治させて自費で開拓させる方針をとったのである。
◇「君臣心を合わせ勤王の実効を奏し、伊達家の汚名を濯ん」邦成の言葉。先祖伝来の家宝から着物までを売り払い、資金を調達し家族を伴って移住した。
◇明治3年3月、第1回移住団250人が新天地北海道へ向かった。
◇アイヌの人に協力を求め、年内の収穫に向けて雪深い地を開拓し始めまた。
◇刀を使って木を切り、食料としての蕗を集め、困難は、他の開拓地でも当然でした。皆が脱落していく中、有珠に留まり開拓していく伊達家の人々。
◇明治4年には開拓者の数は1000人を突破、開拓の成果も上がっていく。退路を断ち、既にあるアイヌ社会を尊重しながら、新しい共同体を作ろうとした邦成。それが開拓成功の秘訣であった。
◇しかし、その努力を打ち砕くかのように明治4年7月廃藩置県が断行された。これに伴って開拓地は返上となってしまった。さらに、家臣たちの誇りだった士族から平民へとなってしまった。
◇「圧政も甚だし、人心大いに沮喪し慨嘆に堪へざるなり」。伊達武士団の夢は潰えたかに見えた。
◇明治4年8月、薩摩出身の黒田清隆が「開拓使10年計画」を打ち出した。この計画は、10年間で1000万(現在の800億)を投入し、外国から学者、技術者を招き、欧米の技術を取り入れて開拓を進めるとした。黒田は、日本の国力増強のために、本格的に北海道開拓を始めたのである。
◇その頃邦成は、北海道を去ろうとしていた。新政府に対するせめてもの抵抗だった。しかし開拓使は伊達武士団の成果を評価して、北海道に残るように強く説得した。これに、遂に邦成も折れ有珠の移民取締役として再び家臣たちと歩き始めた。

<まとめ、再起をかけた伊達武士団の③つの戦略>
◇戦略① 新技術を積極的に導入せよ
・新しい農機具を調達し、抜本的な農業改革に取り組む。
・馬を使い効率よく畑を耕す。
・有珠郡の特産物となったのは、砂糖の原料となった甜菜(てんさい;砂糖大根)である。当時は砂糖のほとんどを輸入に頼っており、国産化が求められていました。有珠郡には官営の甜菜製糖所が作られた。国力増強に大きな役割を果たした。
◇戦略② 力を合わせ新規事業を起こせ
・明治9年、当時としては革新的な組織「永年社」を作った。今でいう組合のようなものである。移住者の出資と開拓使の補助金を積み立てし、見舞い金や新規事業の推進に充てられたのだ。
・菜種油、大豆・小豆を大都市で販売、硫黄の採掘
・新規事業への取り組みは、自給自足の生活からの脱却を助けました。
◇戦略③ 開拓の精神を次世代に伝えよ
・邦成たちは移住の際から学校を設立した。初等教育を行ったのは、有珠郡にある紋鼈(もんべつ)学校。
・自分達の開拓使、武士の在り方も教えた。教育を通して武士を再生産し、結束力を高めようとしたのである。
◇有珠郡は人口3000人を突破し、開墾もよそとはけた違いの成果を出した。明治政府もこれを称え、移民の手本となった。
◇明治18年、亘理伊達家臣団は士族に復籍した。彼等の開拓が無かったら、北海道の開拓は全く変わっていたかもしれない。農業改革に大きな貢献を果たしたのは間違いない。
◇明治25年、邦成は功績を認められ、民間人として初めて明治天皇から勲章を受ける。難事業を不屈の精神で生き抜いたことを認められた瞬間であった。
◇同心協力・不屈の精神を以って、「負けを転じて福とした」人々であった。

<その他追加情報>
(伊達市のHPから)
◇明治政府から移住費用や開拓に要する費用の支援は一切なく、伊達家は先祖伝来の宝物や装飾、装身具の類まで売り払って移住費用を捻出しなければならなかった。移住は明治3年から14年までの間に9回行われ、総勢約2,700人が移住した。
伊達邦成は、既にアイヌの人々の集落がある有珠地区周辺ではなく、あえて未開拓の原野から開拓を始めました。その際アイヌの人々に対して、常に礼節を重んじること、騙したり彼らの馬を無断で使用したりしないこと、そして住宅にみだりに立ち入ってはいけないという規則をつくり、家臣らも忠実にそれを守りました。そのため、争いは一切なく、アイヌの人々も、親切に天候や土地の状態、山菜などの食べ物を教えたほか、常に開拓を手助けしてくれたのでした。

(「仙台藩最後の御姫様」伊達宗弘・伊達君代著から)
◇邦成は開拓の功労により数々の光栄に浴しましたが、最大のものは明治25年華族に列せられ男爵の位をさずけられたことです。この栄誉はまさに亘理から移住した人びとの血と汗の結晶によってもたらされた賜物であります。
◇邦成は1841年岩出山伊達家九代義監の次男として生まれ、のちに亘理伊達家に養嗣子として迎えられた。世嗣ではなく恵まれないあるいは窮屈な環境であったからこそ、自分を向上させようと努力し、それが後年に花開いていったのです。人の意見をよく聞き、是々非々で物事を判断し決断をする。場合によっては全責任をとる覚悟で物事に対処していく。高い教養と知識、思いやる心、自分を省み克己する心は(岩出山時代からの)長い修養の中で研ぎ澄まされた感性となって輝いていったのです。
◇新天地北海道に主従一体となって全員が移住し、北海道開拓のパイオニアとなって伊達の心を「伊達市」という形で復活した亘理伊達家の歴史とともに、邦成の兄邦直の苦難に満ちた岩出山伊達家主従の歴史、そして白石片倉家主従、角田石川家主従の歴史も仙台藩の最後を飾るに相応しく燦然と輝いています(追記;岩出山伊達氏主従の北海道当別開拓の困難な歴史については戦前の小説「石狩川」本庄陸男著に詳しい。なんとも読みずらい本ではありますが)。

<ブログ子の感想>
◇伊達邦成公をはじめとして有珠に入植した亘理伊達家臣団の開拓の苦労は少しは知っていた。伊達市の開拓記念館を訪ねたこともある。しかし今回あらためてその業績を知らされてその偉大さを認識した。
◇歴史上の人物として表だって出てくる人物とは別に、隠れた存在だがとんでもない偉人がいたりする。伊達邦成はまさにそんな人である。
◇局面においてトップが判断を誤ると部下は露頭に迷う。戊辰戦争における仙台伊達氏の判断には疑問がある。
◇その伊達藩の中にあって、登米伊達家13代邦教は、仙台藩降伏時躊躇することなく全員帰農の許可を得て北海道移民の選択はしなかった。百姓付でない土地で在国の家臣たちに小作させていた土地があり分配したことと、自らの土地もことごとく分与するなどしてしのいだ。維新のとき登米領内はよくその財産を失わず、従来どおり農業に従事して、他家のような苦労をみず今日に伝統文化を伝えられたのは、邦教の機を見るに敏な英知と家臣に対する温情として評価されている。藩内にはこのようなトップもいたのはうれしい話である。
◇北海道に移住した伊達家家臣団の中で亘理藩の成功が際立っているが、この理由の第一は与えられた土地(有珠)が北海道の中では気候温暖で海の幸・山の幸に恵まれ土地も肥沃であったためと思う。噴火湾沿いの現在の伊達市あたりは「北の湘南」とさえいわれているくらいである。番組ではこのことに触れられていないのは頷けない。伊達藩の他の移民した家臣団は与えられた土地が位置的に交通の便が悪かったり、厳しい寒さのやせた土地であったり湿地であったりあまりに過酷な条件で、有珠のような成功をおさめることができなかったのは当然と思える。亘理伊達氏が有珠郡を与えられたいきさつを知りたい(単に抽選で決まったのかもしれないが)。
◇活火山である有珠山は江戸時代以降でも何回も噴火をくりかえしている。近くは、2000年に複数の噴火口から噴火した。やや落ち着いた後に現地で、うねった地面や火口から噴石が吹き上がるのをみた。幕末嘉永六年(ペリー来航の年)にも大きな噴火をしている。邦成公たちが開拓した有珠の台地は火山灰が堆積した土地とすると、開墾しにくい大木はなかったのではないだろうか、土地は酸性で肥料分の吸収はよくないかもしれないがアイヌの人たちは作物をつくっていたわけであり地質は改善すれば作物は作りやすかったと思われる。入植2-3年までに開墾した土地の面積がやたら広いのは「それが出来た」土地だったのではないか。内陸の湿地や泥炭地、大河の氾濫が頻発する土地に比べて格段に恵まれていたと想像する。
◇アイヌの人たちと友好関係を保ち、生活するうえでの情報交換が出来たことは重要である。特に寒冷地の冬を乗り切る知恵は絶対に先住者の経験を聞くしかない。ここをうまく運営出来たのは大きい。
 寛政時代に、八王子千人同心の部隊が勇払に住居を構えて北海道開拓の先鞭をつけたが、やせた土地、寒冷地の厳しい生活を克服出来ずに撤退をよぎなくされた。北海道で農業をやるなら肥沃な土地と万全の寒冷地対策がいる。亘理伊達藩は土地に恵まれ、機智に富むリーダーがいたおかげで開拓を成功に導けたものと思う。

最後までお読みいただきありがとうございました。感謝申し上げます。  


Posted by OOAKAGERA at 21:32

2015年02月14日

2月14日(土)の日記 テレビ「水曜どうでしよう」

◇北海道テレビ(HTB)制作のローカルバラエティー番組「水曜どうでしよう」のかなり前の番組の再放送が毎週水曜深夜にテレビ朝日で放送されている。
◇「水曜~」は、俳優大泉洋さんたちが国内外を旅する番組で1996年放送開始とのこと
◇北海道では、深夜にかかわらず人気のあった番組で無計画でなにが起きるかわからないスリルとデイレクターを含めた4人のメンバーのゆるゆるのやりとりを楽しめた。
◇レギュラー番組は2002年に終了しているが全国各地のローカル局でネツトされたりして、現在もテレ朝で再放送がされている
◇先週の内容は「中米・コスタリカで幻の鳥ケツァールを激写する!その①」であった。まだケツァールには出会えていないようだったが、興味を覚えたのはその撮影機材(カメラ)である。2001年に放送されているというから14年前になるが、望遠カメラで撮影を試みていたが、今とはずいぶんと機能に差がある。
◇鳥の撮影のため、日本から持参したカメラは600mmの望遠レンズ付の一眼レフカメラ。絞りもシャッタースピードもピントも手動。図体はでかくて重い。大泉しろうとカメラマンは動いている鳥を画面に入れることも出来ず四苦八苦していた。
◇その頃はまだデジタルカメラが広く普及しておらず、価格も高かった。現在1万円台で買えるコンパクトデジカメに基本的機能が同等のデジカメが、20世紀終わりの頃初めて販売された時パソコンも含めて2-300万円であったと記憶する。今のカメラは機能もすぐれ価格も安い。眼を見張るばかりの進歩である。
◇現在、鳥の撮影に広く使われてるカメラを、「水曜~」のテレビ番組のケツァールの撮影に使えたら問題なく大泉カメラマンも傑作をものにしていたことでしよう。来週の番組では少しは機材の操作に慣れて、ケツァール撮影が出来ることと期待している。
◇機材が進歩し、だれにでも鳥の撮影が容易に出来るようになった・・・はずだが、これがなかなかきれいな写真がゲットできない。やはりどこまでも「ウデ」が必要なことには変わりはないようで・・。  


Posted by OOAKAGERA at 22:00

2015年02月13日

2月13日(金)の鳥見 今週の振り返り

総括
 ・カモをはじめ冬の鳥の移動がみられるき

【今週の「みーつけた」一覧】
  

【記録写真】
◇手抜き、名前も説明もなしでーす。
     

   

【風景写真】
◇「たるひ」・・・昔昔近所のおばあちゃんがこのように言っていたのでてっきり仙台弁でツララのことをタルヒと言うんだと思っていたが、どうも古い時代の表現で「垂氷(たるひ)」らしい。古語が方言のように局所的に残っていて使われている例はままあるようだ。
    


Posted by OOAKAGERA at 19:10

2015年02月10日

2月9日(火)の日記 MRI検査受診奮戦記

 市内の大病院で、右ひざのMRI検査を受けた。いわばやり直しの2回目のMRI検査である。命に別状のある病気でもなく当方やや気乗りせずの検査ではあった。

■右ひざの痛みが頻発するので、近所の新規開院の整形外科で見てもらったがなかなかよくならない。X線検査結果骨には異常なし、関節の形も異常なしで、これ以上は精密検査をすべきと診断され、紹介された街の中の病院でMRI検査(1回目)を受けた。X線は骨と肉のように密度差がないと画像にならないので軟骨や靭帯の異常は判断できないらしい。これがMRIなら出来るようだ。
■話にはきいていたMRI検査、特に問題なく終了した。この時は、騒音対策として耳栓(つぶして耳の穴にいれると自然にふくらむタイプ)をしたせいか音については特に気にならなかった。ただし看護師の声も聞こえずやや混乱した。
■結果は関節の骨と骨の間にうっすらと影が見え、腫瘍かもしれないので大病院で検査要と診断され、紹介状を書いてくれた。
■大病院では、造影剤を入れての再度MRI検査が必要と医師に言われ、2回目のMRI検査をこの大病院で受けたわけである。
■このMRI検査は2回目でありじっくり観察できた。その「思い出しながら」のメモである。
■ここでは耳栓ではなくヘッドホーンのようなタイプの防音具を装着させられた。これがちっとも防音になっていない。騒音がよく聞こえた。
■前回も今回も「オープン型」のMRI装置であったと思われる。釜の中に押し込められるわけでもなく「閉所恐怖症」の傾向もないので狭くて怖いという感覚はなかった。
■検査部位は右ひざ。有無をいわさずここをがっちり固定された。これがきつかった。
■検査開始。まず最初にタッタッタッという軽めの繰り返し音、軽いピックでやわらかいモルタルを斫っているような音。やがてバックにグワーンという暗騒音。
■次に大型のピックで分厚いコンクリートをダッダッダッと斫るような音。後ろに一昔前のベルトがけ精米機のようなパタパタ音が入る。
■やがて銀座線の古い地下鉄車両がホームに入って来るようなゴーッという音。
■そして、強烈な警報音が鳴り出す。コンピューター室の消火のためにハロゲンガスを入れる前に鳴らす警報音といったところ(そんなの聞いたことはないが、イメージとしてそんな大きなたまらない音)。
■突然静かになる。バックグランドミュージックが聞こえる。10分あまりで検査は終了、と思いきやここで造影剤を注射されてまた検査の繰り返し。
■結局30分以上かかって検査は終わった。
■印象として、私にとっては音はがまん出来る、むしろ時間短縮化をはかってもらいたいものだ。痛い状態で膝を固定されてたまらなかった。
■MRIの進化も著しいものがあるようだ。私の受けた機械は古いタイプだったのかもしれない。もっと楽に検査できる機械が作られているかもしれない。ただしあまりに高価で一度設置した機械はなかなか更新できないものと思われる。  


Posted by OOAKAGERA at 21:26

2015年02月06日

2月6日(金)の鳥見 今週の振り返り

総括
 ・先週末の大雪の影響があちこちに見られた。だいたい車での移動がしにくい日が多かった。
 ・雪のあと見かけなくなった鳥もポツポツ

【今週の「みーつけた」一覧】
  

【記録写真】
◇コクガン探しに半島一周。いないいない、どこの港にもいない。いたのは1か所のみ。小さな川の出口付近に水飲みにも来た(2枚)
◇ウミアイサ/ なんだかおっさんの風情
◇たまにはじっくり→アオサギ など
     

◇ダイサギ/ 大きなダイサギ
◇イカルチドリ/ 今週は全く違った3ケ所で出会った(2枚)
◇ヒヨドリ/ リンゴ大好き
     

◇雪の河原にタシギが
◇ノスリ/嘴が紅色だった
◇セグロセキレイ/特になんとなくシャッターを押しただけ、といったらかわいそか
   

◇カワセミがいろいろな姿態をみせてくれた(ダサク4枚)
     

◇アトリ/ 群れにはなかなか会えなかった。間違いなくいそうなところに出かけた(2枚)
◇カワラヒワ/ 蒸れてた、モトイ「群れてた」
◇ベニマシコ/ なかなかきれいに撮れない、勉強をつづけます
     

【風景写真】
◇雪の河原。コントラストが見事
  

◇港のシンボルとなるアーチも復旧したようだ
    


Posted by OOAKAGERA at 21:09

2015年02月01日

2月1日(日)の日記 車エンジン始動せず

◇一昨日は全国的にあちこちで大雪。仙台も午後からやたら湿った牡丹雪が降りあれよあれよという間に積もった。夜半に特に降り続け20cm以上に達した。
◇というわけで昨日は雪かきに追われ、道路も雪で車での外出はしなかった。
◇本日はメイン道路の雪は除雪され車での通行が心配ない状態と見極めて昼前に出かけようとしたらエンジンがかからない。
◇セルは回っているのでバッテリーではなさそう。あまりセルを回し続けるとバツテリーが消耗するので適当にしてディーラーに電話。
◇ディーラーの整備部門、本日多忙で対応は遅くなりそう。そこでロードサービスに電話。初めてロードサービスのお世話になった
◇電話して15分ほどでレッカー車に乗って信頼おけそうな風情のおじさんがやって来た
◇ここで本人確認としてクレジットカード(石油会社系)を見せてOK
◇2-3やりとりの後私がエンジン始動。数秒力なくセルがまわったところでやめた。エンジンはかからない。
◇今度はおじさんが始動。結構長くセルを回す、アクセルをパタパタ踏んでいる。と、やわら排気の煙を上げてエンジンは回り始めた
◇どうやら故障ではなかった。
◇おじさんの質問「車をほんの少しだけ動かしたのではないですか?」。ドキッ、よく思い返してみると昨日車まわりの雪かきをして一時数メートルほど車を動かした。原因はそれらしい。
◇外気温が低い時エンジンが暖たまっていない状態で停止すると、エンジンの中の生ガスが凝縮して点火プラグを濡らし点火せずエンジンが始動しなくなる例がままあるとのこと
◇そんなことしらねー。車壊したくないので無理にセルを回したりしないし。
◇「一応バツテリーあがり」としておきます・・だって。「無料サービスは年間1回ときいてませんか?」ですと、全然聞いてない。また何回でも呼びますぞ!
◇お世話になりました。
  


Posted by OOAKAGERA at 23:24