2021年03月04日

3月4日(木)の日記 東日本大震災 10年目の振り返り 17

【2011年4月7日(木)の日記①】 仙台の火葬場10日待ち
近所に住む友人の親御さんがなくなった。100歳近く、寿命をまっとうしての大往生である。ご冥福をお祈りします。
◇友人談によると、震災の影響で火葬場はフル稼働、申し込みは行列して順番をとる状態。友人の場合もやっと順番がとれたのが10日後とのこと。
◇震災は生活のあらゆるところに影響している。

【2011年4月7日(木)の日記②】 広瀬川のガケ崩れ
◇広瀬川は、仙台市の中心部に近くなって左右に何回も曲がり蛇行している。岸は部分的に垂直に近く切り立ったガケになっている。
◇今回の大地震でこのガケがところどころ崩れて落下している。
◇住居に近いところは対策がとられることと思う。
◇猛禽類が営巣したところも一部壁の落下がみられる。はたしていままで通り営巣して子育てをしてくれるものか大いに気になる。

   

【2011年4月8日(金)の日記】
◇昨晩大きな余震があった。11:32PM、M=7.4、震源宮城県牡鹿半島沖、震度=わが宮城野区で<6強>。3月11日の本震のような「強烈に揺さぶられる」感覚ではなく大きく揺られて長く続いた。
◇わが家では、室内の小物落下とせっかく整理がすんだ本棚1棹が再び転倒。
◇電気・水道・ガスは活きたままで、総じて被害は軽微。ただしライフラインのなにかが停止というところは多い。
◇天井との間にとりつけてある「突っ張り棒」今回も威力を発揮。
 

◇近所のブロック塀倒壊。昨日の地震ではこのような損傷が多かったみたい。
 

【2011年4月11日(月)の日記】 夕方から余震頻発 地面が動きっぱなし
◇夕方5時台に大きな余震。福島県では震度6弱。仙台でもかなり揺れた。地震はその後数分間隔で続き、まるで地面が動きっぱなしといった感覚の状態が1時間以上続いた。なんとも気持がよくない。
◇工場の復旧計画のためいわき市に出向いている親戚Dさんは電気水道ガスが停止して不自由な生活状態になったとのこと。お見舞い申し上げます。
◇もういいかげん静かになって欲しい。

【2011年4月12日(火)の日記】 余震は止まらず
◇今日も余震は頻発した。テレビやラジオの「キンコーン!緊急地震速報」に驚かされっぱなしだった。精神衛生上はなはだよくない、早く収束/終息して欲しい。・・がM9もある大地震なので1年後に最大余震が起こるケースもあると言っている学者さんもいるようだし、スマトラやニュージーランドでもかなり遅くに大きな余震がきているので油断なく地震対策・緊急用備品をあらためて準備としたい。
◇私のまわりの本日現在の生活環境
 ・電気・水道・ガスは活きている。
 ・ガソリン灯油は必要ないので最近給油していないがガソリンスタンドはようやく行列がなくなった。
 ・スーパーマーケットに商品はかなりそろってきた。ごく一部品薄・購入数量の制限あり(ヨーグルトはまだ不足状況のまま)
 ・市内のバスの運行は大分戻った。
 ・鉄道は、東京-福島間の新幹線が開通、福島-仙台間の在来線が開通。
 ・仙台空港もほんの一部だが民間機が明日通じる予定。
 ・ごみ回収はやつと元に戻りそう

【2011年4月13日(水)の日記】 青葉神社の地震被害甚大
◇杜の都仙台の三大祭りとは、①青葉まつり、②七夕まつり、③光のページェント ということらしい。
◇このうち青葉祭りはまだみたことがないので楽しみにしていた。
◇青葉祭りは、伊達政宗とその家臣たちを祀る青葉神社のお祭りで毎年5月に行われる。神輿渡御、武者行列、手踊りなどがにぎやかに行われるとのこと。昭和40年代から一時中止されたがここ20年以上盛大に催されている。
◇本日所用で近くまで行ったついでに初めて青葉神社に参拝した。
◇そしたら、びつくり、地震の被害が甚大である。
◇まず入り口の大きな石の鳥居が完全に崩壊していた。
  

◇本殿前の灯篭も見事に頭の部分が落ちていた(大分片付けられてはいた)。
  
◇これではお祭りを開催する気分にはならないでしょう。
◇サクラはもう咲き始めている。今週末は見ごろか。
◇この程度の地震被害はこれからどんどん見える形になってくるだろう。津波の前に大きな地震があったわけだから。そして大きな余震もあった。  
【2011年4月16日(土)の日記】  宮農高まわりの状況
◇所用で名取市の海に近い宮城農業高校近くに行く
◇県道10号線(塩竈亘理線)の閖上大橋は通行止め。国道4号線から仙台空港鉄道線に沿った道に左折、この道は県道10号の先までゆける。
◇宮城農業高校の敷地の周回道路は通行できる。
◇宮城農業高校の2階までは津波がきている。3階は無事だったように見える。敷地には隣接するゴム工場のタイヤ置場のタイヤが流れ込んで無残な状況
 
 

◇広浦側の堤防も貞山堀の水門も破損
  
 


  


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2021年03月04日

3月4日(木)の日記 東日本大震災 10年目の振り返り 16

【2011年4月6日(水)の日記】 津波に会った方の衝撃的な話を聞く
◇昨日から開いている仙台駅前のさくら野百貨店地下食料品売り場を見てまわった。
 ・魚・肉・野菜、生鮮品もそろっている。
 ・パンも牛乳もOK、いろいろ取り揃えてある。
 ・ヨーグルトは売り切れ。もともとあまりなかつた様に見えた。
 ・お土産物店も商品はそろっていた。

◇コーヒー豆店のコーナーで一休み。カウンターでコーヒーを飲もうと座ったら隣に初老の紳士とその奥さんがおいしそうにコーヒーを飲んでいた。聞けば女川で津波に会い、仙台の肉親宅に身を寄せているとのこと。
 まつたくのインタビュー報告。偶然会った方の話だが、顔をあわせて聞く実体験の話は心に突き刺さる。以下は断片的だがその方の話(著者注;細かくは違っている点があるかもしれない)。
 ・地震のあと原発の建物に避難した。当初の津波想定はそこでOKだったが、想定が高くなり、より高い建物に移動した。
 ・建物の屋上に上がり、さらにアンテナに取り付いた。
 ・津波は衝撃的な強さで横から襲って来た。さらに引き波の力もすごかった。
 ・屋上には20人余りが逃げてきていたが、津波のあとは6人しかいなかった。
 ・津波は胸の高さまできた。たまたまアンテナをつかむことが出来て流されず耐えることが出来た。
 ・流れてくる材木なども怖いものであったが、なんとかアンテナを盾にして奥さんともども逃れることが出来た。
 ・津波は何回も来た。1回目より2回目が強かった。5回目くらいからは低くなった。
 ・消防の人が流されてきて、たまたま笛を吹いて自分の存在を知らせることが出来て学校の位置で助けられた。
 ・水位が低くなった後に、高台の避難所の学校に移動した。
 ・水に濡れ、泥もかぶり寒かった。カーテンを貸してもらえたのでそれに包まって少し寒さをしのげた。
 ・孤立状態で2晩はまったく食べ物なし、3日目にやっと水と小さなミートボール2個を食べた 
 ・5日目に肉親が歩いて探しに来てくれて助かった。肉親はてっきり津波に流されたとあきらめていた。
 ・家は流された。
 ・3週間過ぎてやっと少し落ち着いた気持ちになった。
 ・生きるか死ぬかはほんの紙一重であるとつくづく思った。
 以上が本日聞いた衝撃的な話である。

 女川のニュースは震災直後は入らなかった。3-4日して突然「壊滅的被害」と聞いた覚えがある。救援もない中寒い暗い夜を過ごさなければならなかったことを思うとまったくお気の毒であった。
 被災したひとりひとりにはほんとに涙なしには聞けないそれぞれの体験がある。
 今回地震・津波災害を受けた方々の貴重な体験談を真摯に受け止め、将来同じ悲しみが起きないような対策を考え実行してゆかなければならない。

   


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2021年03月04日

3月4日(木)の日記 東日本大震災 10年目の振り返り 15

【2011年3月31日(木)の日記③】 浪分神社 大昔からくり返される
◇知り合いに<実家近くに「浪分神社」というものがありそこは海からかなり離れているが大昔津波が来たという言い伝えがある、今度の津波でも近くまで波が来たようだ>と聞いた。
◇地震の少し前にテレビのニュースで1000年以上前に貞観(じょうがん)の津波という大きな津波があったことが文献にあり、最近の地層の調査でその規模が非常に大きかったことがわかったというようなことを放送していた。
◇本日、浪分神社を探訪した。
◇浪分神社の場所は、若林区霞目、自衛隊の東、横綱谷風梶之助の墓の近く、バス停「霞の目」のすぐ前である。
◇歴史上仙台は昔から大地震や大津波に幾度となく見舞われてきたようだ。浪分神社は海から5kmも陸に入ったところだが昔大津波がここまで来たらしい。
◇昔、慶長16年(1611年)12月に大地震が起こり、これに続く津波に襲われた。この時の大津波の状況は、伝説によると浪分神社の位置まで波が達し、この高台で波が二つに分かれたとされている。
◇またさらに前の、平安時代の歴史書にこのあたりを襲った大津波の記述があるらしい。869(貞観11)年の貞観津波だ。
◇そして、この付近の地質を調査した結果は「仙台平野の内陸部に達する貞観並みの巨大津波は、約1000年ごとに起きている」ことが分かった。貞観津波からはすでに1100年以上が経過しており、巨大津波を想定した地震対策が必要と一部の学者から声が上がっていた。
◇テレビのニュースによるとこの話を聴いていた海に近い地元の一部の人達は、決められた避難所である小学校では危ないと判断して仙台東部道路まで退避し難をのがれたという。これが本当とするとなんともやりきれない話である。せっかくの調査検討結果が活かされなかったことになる。
◇今回の津波は仙台東部道路が防潮堤の役目を果たしたとのこと。東部道路の構造は「橋脚」ではなく「土盛り」であり、本日東部道路の西側を見た限りでもダムの効果がはっきりと認められた。ただし、土盛りを貫通する(交差する)道路部分の四角い穴(トンネル)から海側から来た津波が陸側に噴出してそのまわりは津波が運んだゴミがたまっていた。東部道路がなければ津波は浪分神社あたりまで浸入したかもしれない。
◇先人は津波の被害を受けて、この被害を繰り返さないよう自戒を込めて後世に伝えたのが浪分神社としたら、結果として効果的に伝わらなかった。また科学的な裏づけ調査をして対応を提言している学者先生もいたが意見が活かされなかった。それは受け止める側の今の時代のわれわれの問題かもしれない。
◇このあたり、津波だけでなく地震そのものによる地面の陥没も目立つ。道路があちこちで割れたり沈んでいたりしていた。
  

【2011年4月1日(金)の日記①】農業園芸センターまわりの状況
◇市内若林区荒井にある農業園芸センターまわりの地震・津波被災状況
◇ここは昨日記述した「浪分神社」の海側、仙台東部道路のさらに海側にあたる。
◇仙台東部道路から海側は津波の跡の泥とゴミが散在。主要道路は通れるようにガレキや樹木などを道のわきに寄せてある。高さにより被害程度に差がある。低い土地は泥がたっぷり堆積している。
◇農業園芸センターは閉鎖中。駐車場は泥堆積。少し高い位置は被害をうけていない様に見える。
◇大沼にはなぎ倒された樹木が散乱、部分的に集まっている。
◇大沼周回道路はほぼ全周地崩れで損壊。
◇近隣の荒浜地区には侵入禁止。
◇県道10号線(塩竈亘理線)は通行可、高砂大橋も通行可。
    

  

【2011年4月2日(土)の日記①】 ガソリン給油状況やや改善
◇利府街道岩切の町を過ぎて利府町に入ったところの宇佐美、午前中10時過ぎに通りかかったら車は行列なしで給油出来ている。せっかくの機会なのでUターンして待ち時間ほとんどなしで満タン給油。ラッキー。出光のローリーの動きが活発になっている。アリガトサン。
◇ここも午後には行列が出来ていた。それでも2-300m、と短い。ここは穴場かそれとも少し給油環境がよくなったか・・?あるいは本日はゲリラ的に急に営業したのか・・・

【2011年4月2日(土)の日記②】 県民の森まわりの道
県民の森まわりの状況(見た範囲で)
◇もともとの計画的な工事のため七北田川今市橋側からのアプローチは不可。利府側からは可。
◇青少年の森、中央記念館とも閉鎖中
◇森内は地震による地面の亀裂、土手の脱落などがみられる。遊歩道への立ち入りは禁止となっている。
◇要するに来ても歩けない。
◇周辺道路には凸凹が生じている箇所あり。運転要注意。
◇四季の森方面は通行禁止。富谷方面からの道は大きく崩壊していて通れない。
◇利府のグランディ21方面には抜けられる
  

【2011年4月3日(日)の日記①4】まだガスがこない
◇仙台市ガス局は他都市の応援を得て、3200人規模のオールジャパン体制で懸命にガスの復旧に取り組んでおり昨日まで約1/3の家庭が復旧できたらしい。
◇毎日の開栓予定が町単位で示されているがわが家まわりは未定である。
◇本日わが家まわりに東京ガスの系列の会社の応援の人がいてなにかやっているので聞いてみると各家庭のメーターの入口の取り合い弁までの供給側の復旧をしているとのこと(ここで不具合が見つかれば修理するという流れらしい)。このあたりの復旧の見込みは不明とのこと。動きはあるが、2-3日中には復旧しそうにない。残念。



【2011年4月3日(日)の日記②】 仙台市民の被害
◇震災の後、大した被害がなく元気にしている様に見える普通の仙台市民の、わかってきた被害(私がわかってきたということ)
◇建物に被害がないといえても、地震で家財が痛めつけられていることがある。食器棚が倒れて食器がメチャメチャに破損とか本棚が倒れて本・家具・床などが破損など
◇震災当日や2-3日後まで、大きな余震が頻発する中散乱した家に戻って過ごすのは怖くて自動車の中や避難所で過ごした人も多い。
◇建物の地震による被害もわかってくるほどに多い。古いビルなどは躯体に損傷を受けたり、盛り土の造成地では家全体が傾いたりといった被害も散見する。
◇近郊の森や高台などは地割れ・土砂崩れなどを多く目にする
◇勤め先が津波の被災地で車をなくした人の話も耳にする。
◇これから、心の面の被害も顕在化してきそう
◇新聞記事にならないところでの震災による損傷もスコグ多い。

【2011年4月4日(月)の日記①】 ダイエーでまともに買い物
◇所用で街の中に出たついでにダイエーで食料品など買い物
◇もう行列なし、並ばなくとも買える。
◇品物もかなりそろっている。
◇食料品の中では(私の買い物の中では・・)、牛乳が単一銘柄(岡山産)のみそれでも数量制限なし、ヨーグルトはあまり見かけない銘柄のみしかも1人1個に制限あり。乳製品はかなり品不足のままである。地元の有力2工場の製造停止がきいている様だ。
◇街の雰囲気も落ち着いている。救急車に出会わなかった。

【2011年4月4日(月)の日記②】 ついにガスが来た
ついにガスがきた。これでわが家で風呂に入れる。調理も元に戻れる。
.◇今朝の新聞に、突然わが町が本日から開栓開始と出ている。ビッグニュース。
◇昼前、わが家の前の公園にガス会社の人、聞けば宮崎県からの応援の方々で開栓中とのこと。遠路ご苦労様です。わが家ももうすぐと期待。
◇午後5時頃、わが家にやっと来られました開栓組。すぐにOK。万歳!。
 ありがとう、オールジャパンガス復旧隊の皆さん  


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2021年03月04日

3月4日(木)の日記 東日本大震災 10年目の振り返り 14

【2011年3月28日(月)の日記④】JR仙石線一部開通

◇鉄道が開通! JR仙石線の青葉通り終点から小鶴新田までが本日開通した。
  

【2011年3月29日(火)の日記】 ガソリン25リットルゲット
◇ガソリンが最低目盛のままで少し心もとないので本日は朝から覚悟の上車の行列に並んだ。
◇近所の、国道45号苦竹駅東側、ヤマダ電機前の給油所。苦竹SS。給油能力が大。ここのところ毎日営業している。ただし午後には在庫切れのようだ。
◇ここの行列は最初の信号から2手に分岐している。下流側ではさらに分岐している。自転車によるチェックで本流である45号~中原本通りに並んだほうが早いと判断していたので、このルートの最後尾につく。6:40、苦竹郵便局前。30分遅くても10台くらい並んだだけ。並び出すのはもう少し遅くてもよかった。
◇8:40に列が動き始めた。給油開始とみえる。
◇9:00には45号IN、9:15苦竹駅ガード下と動きは早い。
◇9:50i給油できた。レギュラー単価160円、25リットル(4000円分)ゲット。セルフ。
◇セルフ灯油も簡単にゲット。シナネン石油殿ありがとう。
◇待ち時間3時間40分、前回よりはまし。これも時間がたっぷりあるからできること・・・。
◇エンジンをとめて待っていると寒い。十分な防寒対策をしたつもりだが足元から冷たさが這い上がってきた。津波の被害を受けて何日か孤立した人たちは防寒着もなしにこんな寒さに耐えたと思うと頭が下がる。
◇待っている間に文庫本1冊を読んだ。本棚からみつけた古い本。柳田邦夫著「恐怖の2時間18分」、1973年3月アメリカスリーマイル島の原子力発電所で起きた事故のドキュメント記録。今日現在も深刻な状況にある東電福島とは原因も影響も大きく異なる。

【2011年3月29日(火)の日記②】購買環境ぐっと改善された
◇昨日から24時間営業のセイユーが一斉に開店。近所の店に行く。
◇本日午後からの様子。行列なし、店の中もゆっくり選べる。商品もかなりそろっている。
◇朝のうちはそろっていたと思うが、ヨーグルト・食パンは在庫切れ。牛乳はあり。野菜などもある。
◇食料・日用品の購買環境は大分よくなった。

【2011年3月30日(水)の日記】 気仙沼までハガキが5日で到着
◇気仙沼の友人宅へ出したハガキが5日かかって到着した。
◇友人宅は幸いやや山手で津波の被害にはあわなかった。
◇やっと郵便が配達されるようになったということか。
◇道路はなんとか

【2011年3月31日(木)の日記①】 親戚に風呂をもらいに
◇ガスがなかなかこない。仙台市ガス局は連日開栓作業を進めておりガスが使用できるようになった地域は少しずつ増えている。わが家のまわりは、一度予定が発表され、2-3日前にはガスは生きるはずだったがなぜか後回しになりまだ使用できない。
◇2日ほど前にガスが生きた仙台市の反対方向に住む親戚から風呂の招待があり、お言葉に甘えて出かけた。久しぶりの風呂は気持ちがよかった。親戚Dさんありがとう。
◇夕方、わが家の近くでガスのマンホールを開けてチェックをしていた。仙台市ガス局に応援に来た北陸ガスの方々。さて明日開栓になるか。なって欲しいが。

【2011年3月31日(木)の日記②】 東北本線も一部開通 
◇東北本線(在来線)の仙台~岩切間が本日開通した。わが家に近い東仙台駅の両隣の駅間が開通ということ。
◇東仙台駅で両方向行きがすれ違い(下写真)
     


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2021年03月04日

3月4日(木)の日記 東日本大震災 10年目の振り返り 13

【2011年3月27日(日)の日記③】 本日現在の生活環境

本日現在のわが家の生活環境
◇電気・水道は来ている。
◇ガスは、まだ来ていない。仙台市ガス局がエリアを区切って段階的に復旧にかかった。わが家のまわりはあと2-3日で復旧とみた。ガスがないので調理にてこずり、風呂も入れない状況。
◇買い物は相変わらず不便。お店への入荷品目・数量とも少ない。食料品は大きい店ほど品数は多い(といっても平常に比べてまったく少ないが)が行列が長い。コンビニは開いてる店は半分以下、置いているものは限られている。ときどき「当たり」があるのでこまめに行列に並んで覗く必要あり。近所のミニスーパーは品物が入荷次第すぐに店頭に並べてくれる。ただしいつ来るかまったくわからない。行列の様子をしょっちゅう監視していないと望むものは買えない。
◇すぐ近くの薬局は薬の入荷が少ない。私の花粉症に効いた希望の薬が買えなかった。
◇ガソリン状況は一向によくならない。少しずつ入荷しているようだが、給油してくれるのはごく限られた店のみ。給油しているところは1km-2kmの長蛇の列。もう緊急用にしか車は使わない。
◇宅配便は復旧。自宅まで配達してくれる。
◇仙台市内の病院は外来をほぼ平常体制で受け入れてくれるようだ。
◇東北自動車道は一般車も通れるようになった。鉄道はまだまだ。
◇市内のバスは、本数が少ないようだが通っている。復旧当初は時刻通りに来ず、市内まで数キロを歩いて仕事場に通っている人もいた。
◇東電福島第1原子力発電所は深刻な状況が続いている。仙台までは約100km。これからどうなることやら心配ではある。昔ジェーンフォンダがテレビか新聞かの記者をした「チャイナシンドローム」という映画があったことを思い出す。。
◇わが家と同じ宮城野区の海の近くや隣の多賀城市には特に津波による被災を受けた方が大勢いる。まだまだわが家はめぐまれている。

【2011年3月28日(月)の日記①】 ガソリン給油状況
◇本日午前、近所で給油中のガソリンスタンド゛
 ・出光旭丘。800台以上並んでいる。列は東に伸びて舛桝交差点をまわり青葉病院の先まで続いている。
 ・コスモ苦竹。ここは枝分かれしている。人手不足らしく交差点で整理されていない。本流は中原の通りを松岡踏切あたりまで。

【2011年3月28日(月)の日記②】 安否確認システムに登録してあった
◇今回の震災で、親戚が当方の無事をGoogleの安否確認システムに登録してくれていて、これを見て安心していたという連絡が遠方の人からあった。登録していてくれた親戚Eさんありがとう。

【2011年3月28日(月)の日記③】宅急便山口県から2日で到着
◇本日も宅急便が届いた。遠方山口県から2日で配達された。クロネコさん頑張ってくれている。ありがたい。お茶を飲みながら久しぶり山口の名産和菓子等をゆっくり味わった。気分が晴れ晴れとしました。お心遣いに感謝感謝です  


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2021年03月04日

3月4日(木)の日記 東日本大震災 10年目の振り返り 12

【2011年3月24日(木)の日記③】 牛乳買えた
◇昨日は買えなかった牛乳を買えた。近所の中規模スーパーで10分待って牛乳1本ゲット。近隣の別のスーパーでも同様。少しずつ環境はよくなっている・・・か?


【2011年3月25日(金)の日記①】 本日午前ガソリンスタンド状況
 本日午後の国道45号、JR苦竹駅から東側と扇町方面の給油所状況
    

【2011年3月25日(金)の日記】 福島原発深刻な状況続く
◇福島第1原発は深刻な状況が続いている。仙台までの距離は約100km。大丈夫だろうか。
◇名古屋から仙台行きのフェリーからみると福島県の浜通りは次々と発電所があらわれ、さながら発電所銀座。
 写真は、健全に運転していたころの東電福島第一原子力発電所のフェリーからの遠景
 

【2011年3月26日(土)の日記②】 北海道から牛乳が
◇相変わらず牛乳ヨーグルトなどの乳製品が品不足。あちこちミニスーパー・コンビニをまわり行列に並んでなんとかゲット。これが北海道産。昨日仙台港のフェリー岸壁の使用が出来るようになり太平洋フェリーのおなじみ「きたかみ」が北海道から救援物資を大量に積んで入港というニュースがあった。北海道の皆さんにはごめいわくをおかけします。太平洋フェリー有難う。
◇自転車で近所を「地回り」しながら目的の食料を買えそうなところに並んでゲットしているが、これは
 ①時間があること、②体力があること、③テキトーに情報を得てテキトーに判断できること   ・・・が必要である。
ということは以下の人には非常に過酷な環境である。
 ①お年寄り、②幼児・幼児連れ、③昼間行動できない忙しい人、④町の情報にうとい人(井戸端会議の出来ない人)
自宅に住みライフラインが活きて一見平穏な生活の復活に見えても、生きていく上であまりに厳しい環境にある「避難民」はたくさんいる。

【2011年3月26日(土)の日記③】 新幹線の復旧急ピッチ
◇東北新幹線は現在急ピッチで損傷箇所を修復中。わが家の近所の橋脚のコンクリートの補修はほぼ完了。
◇これから架線を保持する支柱の補修(交換?)に進むものと思われる。
◇本日の新聞によると、(国土交通省の話として)新幹線のコンクリート橋脚やトンネルは阪神淡路の時のような大きな損傷はなく4月中に開通の見通しとのこと。
    

【2011年3月27日(日)の日記②】 佐川もクロネコも配達してくれる
◇佐川急便もクロネコヤマトも宅配してくれるようになった。一昨日北海道で発送手続きしてくれたクロネコ宅急便荷物が本日午後にはわが家まで配達された。平常と変わらない速さでびっくり。
◇北海道の貴重な食料、パン焼きの材料、非常食、日用品まですごい量の救援物資。ありがとう。心遣いはうれしい限り。
◇佐川急便も、千葉から2日で配達までしてくれた。これまた生鮮食料をはじめさまざまの救援物資。もう感謝の気持ちばかりです。ありがとうございます。  


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2021年03月03日

3月3日(水)の日記 東日本大震災 10年目の振り返り 11

【2011年3月23日(水)の日記④】 近所の損傷状況 道路編
 近所を自転車で歩き回った際に気づいた道路の損傷例
◇車道の損傷
 ・45号線下り線、多賀城市との境界近く深く掘り起こして補修中
 

 ・県民の森(四季の森)、道路の崩落
  


 ・小鶴新田駅前エリア、ごく一部凸凹で通行禁止あり
  

◇歩道の損傷
 ・小鶴新田駅前エリア、液状化で砂が吹き出た跡
 

 ・歩道の凸凹。左から45号線、小鶴新田駅前、扇町。
   

 ・梅田川土手歩道の亀裂
  

 ・青葉山、天守台下崖崩れ
 


【2011年3月24日(木)の日記①】 宅急便が配達された
◇千葉県北西部に住む友人から宅急便が届いた。昨日発送本日午前中に配達された。生鮮食料品がどっさり。ありがたい。
◇また取りにゆかなければと思っていたら、卸町の営業所に荷物があふれたか・・・届けてくれた。ありがとうクロネコさんありがとう。

【2011年3月24日(木)の日記② 】本日午前ガソリンスタンド状況
◇本日午前のわが家に近い東仙台から北四番町方面のガソリンスタンド状況。宮町交番に近い出光(地図上の⑤)が一般車にも給油していたが整理券の№が450までいってる。車の列は上杉から北六までまわり北六小あたりまで連なっていた。
◇あまり待たないで給油出来るようになるまでにはまだ日数がかかりそう。  


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2021年03月03日

3月3日(水)の日記 東日本大震災 10年目の振り返り⑩

【2011年3月23日(水)の日記①】 いやされる

地震後の生活で「意外に癒やされたこと」
◇電気がこない生活の中でのラジオ。NHKの年を重ねたアナンサーの実に落ち着いた口調に張り詰めた思いはほんとに癒された。
◇助け合い。日ごろ顔をあわせる程度でさほど親しくない人ともお互いに無事を喜ぶ言葉を交わすだけでもずいぶん落ち着く
◇あかり。やはり夜は明るいとほっとする。
◇テレビのCMがAC(公共広告機構?)に切り替わった。阪神淡路のときを思い出す。最初は目新しい感じだがすぐにめいってきた。朝ドラ「てっぱん」が再開されてやっと明るい調子が出てきてよかった。
◇ラジオですこしずつ元気付けの意味で音楽を流すようになった。聴いたこともないチェロの調べに心が落ち着いた。テレビは「BS日本心の歌」でのなつかしい愛唱歌の調べに癒された、選曲は考えてくれているようだった。
◇こんなときだからと花壇に目を向けるとクロッカスが咲き出していた。チューリップももう少しで咲く。マリーゴールドの種まきをした。少しずつだが落ち着いた生活を取り戻しつつある。


【2011年3月23日(水)の日記②】 クロネコ便も来た
◇佐川急便に続いてクロネコヤマトの宅急便も開通した。
◇昨日午前大阪で出した荷物が本日午後に仙台の営業所についた。
◇ネットで到着を確認したらすぐに電話でも到着の連絡があった。
◇自転車で卸町の営業所まで取りに行った。まだ数が少ないのか待ち時間なしで受け取れた。
◇はるか遠方からの救援物資に感謝。親戚Dさんありがとう。
◇東北自動車道の大型車が通行可能(緊急に限られるが)となったせいか関西から翌日に到着とは早い!


【2011年3月23日(水)の日記③】 買い物事情改善
◇買い物事情が少し改善した。
◇近所の小規模・中規模スーパーとも30分も待たないで入れる。
◇牛乳等乳製品はダメ、食パンは手に入れにくいがその他かなりのものが出回っている。
◇ガソリンはまだまだのようで近所のスタンドはまだ閉まっている。  


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2021年03月02日

3月2日(火)の日記 東日本大震災 10年目の振り返り⑨

【2011年3月22日(水)の日記③】 建物の被害
仙台市内の近所で見かけた建物の地震による被害状況と勝手な思い。これから詳細に検査されていくとどんどん損傷が見つかるものと思われる。以下は近所で目にした地震の被害、<建物編>
◇完全に倒壊した建物は少ないがないことはない。写真は扇町の建物。1階は駐車場だがつぶれて車を押しつぶしている。このあたりは田んぼ・湿地の埋立地でありあまり地盤は良くないと思われる。建物は新しい、設計上の問題はなかったか。
    

    

  

◇建物のつぶれかけ
 古い木造の住宅。右奥側が倒壊しかかっている。
◇大きなガラスの破損
 これは構造上の問題が大きいのでは


◇新幹線の橋脚
 地面との境界、橋げたを受ける部分の損傷を補修していた。数は少ない。地盤の良くないところに生じたものか 
     


Posted by OOAKAGERA at 11:56

2021年03月02日

3月2日(火)の日記 東日本大震災10年目の振り返り⑧

【2011年3月21日(月)祝の日記④】 多賀城方面の様子
◇自転車で国道45号を多賀城駅入口付近まで行き、さらに三井アウトレットモールへ回って様子を確認した。
◇仙台市の東端多賀城との境界付近、下り線道路修理中
◇中野栄駅あたりから津波の跡。車があちこちちらばり、ゴミ散乱、泥のあと
◇路上にあった車は道端に寄せられていた。
◇多賀城市の被害の大きさに唖然とする。
◇アウトレットモールまわりは、壁に泥のあと高さ約1m。車の破損はあちこちにみられる。
    

   

【2011年3月21日(月)祝の日記⑤】 蒲生の様子
◇七北田川の土手を蒲生方面に進み状況を確認した。
◇東部道路より海側、高砂中・白鳥団地あたり泥堆積。津波が押し寄せた跡。
◇高砂橋(塩竈・亘理線)より海側は津波の被害大。
◇七北田川、高砂橋橋脚に流された家が引っかかっていた。もっと上流にも同様の流された家。
◇中野コミュニティーセンターより海側は、コンクリート以外の家屋はほぼ全壊状態
◇中野小まわり火災の跡。
◇自転車では中野小まで行けた。あとは道に瓦礫があり徒歩でないと進めない。
◇中野小から干潟の松林(といっても残っているのは数本)まで見通せる。一面の全壊家屋である。まったく言葉が出ない。恐ろしい爪あとである。
◇日和山がどこかわからない。
◇多賀城でも蒲生でも被災された方は多い。謹んでお見舞いを申し上げます。
    

    

 

【2011年3月22日(火)の日記②】 ついに風呂に入れた
◇生活環境、本日の日記
◇病院に薬を取りに行く。連休明けであり、薬が少ししか配布されていないせいもあり病院外来はすごい人。薬局でも待ち時間大。薬をもらうのも大仕事。
◇ついに風呂に入れた。それも温泉(沸かし湯の鉱泉らしいが)。地元情報に詳しい親戚Aさんの紹介で穴場のひなびた山の温泉に。昨日までは休みのせいて゜かなり込み合っていたらしいが本日はお客は少なめ。待ち時間小1時間でゆっくり入れた。仙台の中、近場にこんなところがあるとは・・。ポカポカと風呂から出ても温かい。地震以来11日目の風呂、生き返った・親戚Aさんに感謝。
◇電話、メールとも環境がほぼ戻ったようでスムーズにやりとりできている。遠方からの激励電話やメールがたくさんきた。嬉しい限り。皆さんお気遣い有難うございます。エールに感謝です。
◇宅配便が復旧して、必要品があれば送るという連絡もあちこちからいただいた。ありがたい限り。でも何とかペースをつかんで生活できており今すぐ欲しいものといえばガソリンです。まさか送って貰うわけには行かないし。
◇本日の河北新報1面には、塩竈港に入港第1隻目のアポロマークのタンカーの勇姿。「がんばれ」と横断幕(「ともにがんばろう」にして欲しかったが)。こちらからは大声で「有難う」と言いたい。あと数日でガソリンも出回るでしょう(そうなって欲しい)。
 


◇ガスがなくて調理には手こずっている。
 カレー調理の一幕
 ・野菜・肉はホットプレートでいためる
 ・電気ポットで沸かした熱湯も利用して・・
 ・耐熱ガラスに入れて電子レンジで加熱
 ・最後にLPGのカセットコンロで加熱仕上げ
  

 ・ひとつひとつが新しい操作なのでスムーズにゆかず時間がかかる
 ・LPGのカセットコンロのボンベはあまり在庫がないので出来るだけ節約して使っている。
 早くこいこい、ガスガスガス
◇仙台市ガス局が朗報を発表。新潟からのパイプラインが使えるようになり、まず病院から、そして順次周辺部からガスを生かすとのこと。早い復帰を期待する。
◇消防車・救急車のサイレンの音が少なくなった。ヘリコプターの音も少なくなった。災害派遣の自衛隊や他県の救急車はまだ見かける。
◇北海道で10年間まったく症状がでなかった花粉症が本州に帰ってきてしっかり復活してしまった。今日は鼻水と目のかゆみでサイアク。  


Posted by OOAKAGERA at 11:39

2021年03月02日

3月2日(火)の日記 東日本大震災10年目の振り返り⑦

【2011年3月20日(日)の日記その①】 カセットボンベあり
◇自宅から少し遠いがケイヨーD2新田東店で買い物をした。ここはいわゆるホームセンター。
◇店頭販売。店頭のいつもは植物などを売るエリアに買い物カートを並べている。
◇9:40に列に並び10:30には入店できた
◇世帯ごとの販売制限あり、売り切れもあり。写真参照
    

◇一部の品は店内で販売。地震がくるとすぐに店外に出される。
◇LPGのカセットコンロとボンベ在庫あり。


【2011年3月20日(日)の日記その②】 街の様子
◇カレンダーは3連休ですがだれものんびり休暇の気分ではないでしょう。
◇街の中は不足物資を手に入れようとする人たちが出ていていつもより動きがある。
◇自転車に乗りリュックを背負ってというのが標準スタイル。
◇若い人も多い。
◇あちこちに行列を見かけるがみな整然とならんでいる。
◇ガスがきていないし、必要なものは買えないし生活はかなり制限されている。
◇しかしもっと地震・津波被害の大きかったところも多いわけで、これぐらいはがまんしたい。
◇あまり被害がないように見えるわが家の近所だが、よく見ると車道歩道に凸凹があったり建物に亀裂があったりする。
  

【2011年3月20日(日)の日記その③】 新幹線復旧工事急ピッチ
◇わが家の近くを東北新幹線が通っている。
◇仙台駅ホームの天井の板が広く落ちたらしいが仙台より北側、在来線の東仙台付近でも橋脚にひびコンクリートの脱落がみられた。
◇橋脚の地面境界あたりに強い力がかかったらしく中の鉄筋がみえるほどのコンクリートの脱落を生じている箇所があった。
◇上側でも橋桁近くでコンクリートが脱落している箇所もあった。
◇いずれも不具合箇所の復旧工事に取り掛かっていた。
◇突貫工事で張り詰めた雰囲気で急いで取りかかっている様子が読み取れた。
◇新幹線の復旧も待たれる。
   

【2011年3月21日(月)祝の日記①】 宅配便が届いた!
◇佐川急便で宅配便が送れるようになったとのことで一昨日関東から緊急資材食材を送ってもらったが、無事今朝受け取れた。
◇ただし発送№をよく聞いた上で到着を電話確認の上営業所まで取りにゆくことが必要。
◇営業所は荷物を受け取る人たちであふれていた。
◇荷物を送ってくれた親戚Cどの、佐川急便どのに感謝感謝である・
◇一息つける。
◇クロネコヤマトも復活したようだ。


【2011年3月21日(月)祝の日記②】 近所のガソリンスタンド
 近所に給油しているガソリンスタンドはみあたらない。給油待ちの車がならんだりしているが列はうごいていない。
◇東仙台・幸町
 ・以下の写真のような状況(昨日午後)
   


◇45号線苦竹扇町・産業道路(本日午前)
・車がならんでいるところもあるが給油は行われていない。入荷待ちと思われる。


【2011年3月21日(月)祝の日記③】 髪を洗うには
◇ガスがきていないので、入浴・シャワーが出来ない。復旧はまだまだで1ケ月以上はかかるらしい。
◇長蛇の列に並んで銭湯に入るかお湯をわかして顔や場合によっては体を拭くしかないが髪だけは洗いたい。
◇ガソリンがなくてとても鳴子温泉までは行けない。
◇男性は家のお湯でなんとかなるとして、女性は・・・・街の理容室で1000円くらいで洗ってくれるところがあるのでこれを探して洗髪しては・・・?
  


Posted by OOAKAGERA at 11:03

2021年03月02日

3月2日(火)の日記 東日本大震災10年目の振り返り⑥

【2011年3月19日(土)の日記】 その② 本震発生前後

本震発生前後の様子を思いおこして記す。
◇東松島市の海水浴場として知られる野蒜(のびる)に明治時代に国をあげて取り掛かった一大土木プロジェクトがあった。殖産興業を推し進める明治新政府は東北開発の物流拠点をここ野蒜に定め建設にとりかかった。鳴瀬川河口に内港を建設し北は石巻から南は阿武隈川までを運河で結び、外港として宮戸島から防波堤を築いて外港とする壮大な計画であった。明治15年には内港が完成し、供用が開始された。しかし明治17年9月に台風により港は壊滅的打撃をうけた。そして外港建設には未着手のまま建設は中止となった。現在運河の跡や市街地跡に当時の面影が残っている、というものである。
◇しかし、観光地としてはB級であり知っている人は地元でも少ない。
◇わたしもその存在を知ったのは、内田康夫の推理小説(浅見光彦シリーズ)「不等辺三角形」を読んでである。1年ほど前に単行本が出ているわりと新しい作品である。この中に亘理町の斉理屋敷とともに東松島市の野蒜築港跡が出てくる。ここで初めて野蒜築港の話を知ったわけである。
◇3月11日、野蒜に出かけた。昼食の時刻となり、適当な食堂はないか探し駐車が多い「はやっている」店を見つけて食事をした。牡蠣はシーズンが昨日で終わり、ということで焼き魚定食を食べた。おいしかった。その後店の人に「野蒜築港跡」への道を尋ねたら店主とおぼしき年配のおじさんがわざわざ店の外まで出てくれて親切に教えてくれた。
◇まず、鳴瀬川右岸河口近くのちょっとした高台にある「野蒜築港資料室」に立ち寄る。
◇学芸員と思われる女性の方が1名で番をしていた。明治時代の築港建設についてはさすがに詳しい方で建設のいきさつをいろいろ教えてくれた。内田康夫氏も取材で訪れたとのこと。小説のモデルとなったアナゴ釣りの名人でもある仙台箪笥の職人さんも実在するらしい。
◇これから面影の残る現場へ行きたいといったら川を渡った左岸に行く必要があるという。あまり時間はかからなそうなので立ち寄ってみることにする。資料室で案内図をもらってこれをたよりにいざ左岸へ(以下の添付にこの案内図のコピーを使用させていただきました)
◇仙石線陸前小野駅のわきからせまい道を河口に向かうと遺跡(?)が現れた。先端の記念碑の前から河口まわりの鳥見もした。ここを出たのが14:25頃。
◇少し川をみながら上流に進む。ほどなく雪が降ってきた。それも結構強い降り。今日はこれで引き上げることにした。帰り道は、Aいつもの海沿いの松島経由、B三陸自動車道に乗る、C山沿いの利府街道と3コースあるが左岸から行きやすいのでCコースで行くことにした。
◇国道45号に出て鳴瀬大橋を渡り右折、少し山手に入る。松島町に入る頃、ラジオがいきなり「緊急地震速報」、切羽詰まった声、よく聞くとここに地震が来る・・・車を減速したらゆらゆらときた。すぐに停車し身構える。揺れがどんどん激しくなる。強烈な左右斜め方向のゆれ。車が飛ばされそう。ガソリンスタンドの前だったが構造物が車の上に倒れてきそうでこわかった。
◇気を取り直して落ち着こうとしていると低くなったが継続している波が急に強くなったりする。そのうち「大津波警報」が出た。この場所なら津波は来ないと判断。道の通行はスムーズだったのでどんどん進む・
◇愛宕の交差点から右折し利府街道に入る。利府まではスムーズだったが仙台に近くなり利府から岩切までは渋滞で動かない状態。いらいらしながら少しずつ進み岩切からはまたスムーズに通れるようになり18時頃にやっと帰宅した。
◇振り返ってみると、たまたま山の手コースで帰路についていたのでなんとかなったように思う。海沿いのコースでも高速道でも津波の危険があった。運がよかったとしか言いようがない。
◇野蒜も津波の被害は甚大で鳴瀬川の河口は瓦礫と泥の海である。大波は野蒜や小野の集落を飲み込んで仙石線の電車を巻き込み、国道45号の先まで達している。このあたりは、亡くなった人も多いと聞く。さっきまで話をしていた食堂のおじさん、資料室の女の方、左岸の先の漁港で網をつくろっていた漁師さん達、仙台箪笥の職人さん、みんなみんなご無事であって欲しい。
  
  


Posted by OOAKAGERA at 10:40

2021年03月02日

3月2日(火)の日記 東日本大震災10年目の振り返り⑤

【2011年3月18日(金)の日記 地震関連覚書

本日まで今回の地震がらみのいろいろなこと覚え書
◇電気がくるまで、いや来た後にも携帯ラジオには御世話になっている。胸のポケットに入る小型のものだが貴重な情報源である。余震が多く緊急地震速報も頻発するので常にラジオかテレビをつけておく必要がある。ラジオはよかった。ただし地元の東北放送は早い時点から聞こえなくなったのは残念。
◇地元の新聞河北新報は震災翌日も新聞を発行した。震災にあっていないよその県の新聞社と提携していたらしい。阪神淡路大震災の時の神戸新聞も京都の新聞と提携して頑張っていた。素晴らしい。
◇鳥見でよく行った仙北・仙南と海岸部の被害状況がテレビに映るうつるたび、何でこんなにと思ってしまう。もし現場に居合わせたらはたして無事逃げられたのか・・・。山元・亘理・岩沼・名取・荒浜・蒲生・仙台港・東松島・宮戸島・石巻・牡鹿半島・・・・いいところだったのに・・・。鳥見の際、現地で知り合った方々は無事だったのだろうか。無事であってと祈るばかり。
◇本棚・冷蔵庫などにとりつけていた天井との間の「突っ張り棒」は非常に有効であった。
◇非常時はまわりの人に声をかけよう。心強い・気持ちが落ち着く。
◇携帯電話は地震直後はメールが通じた。これがよかった。その後は2日ほどほとんど電話もメールも通じなかった。その後は携帯電話は情報伝達手段として有効だった。電気がくるまでは充電できずに困った。車から充電できる充電器や予備の電池を用意していた方がよい。
◇ガスの復旧が遅れる。こんな時に備えて卓上のLPGのコンロはあったほうが良い。
◇電気がいきているので、電子レンジ、炊飯器、電気ポット・コーヒーメーカーを調理や湯わかしに利用している。
  

◇水道が活きるまでは、食器を汚さないために食器をラップでくるんで使った。
◇自転車が活躍。古い自転車だが自動車の代わりをしてくれている。
◇地震後のハガキが千葉県から来た。定形郵便物のみOKなのかも。


【2011年3月19日(土)の日記】 その① 食パンが焼けた
◇電気を熱源とする自動のパン焼き器が出てきたとふれまわったおかげで親戚①から材料の強力粉、親戚②からドライイーストが供給された、さらにパン作りの得意な親戚③からメールでレシピを教えてもらいおそるおそるチャレンジ。
◇材料を入れて、スイッチを入れてただそれだけ。4時間の間、時々あやしげな音を発しているのを待ち続けて・・・出来上がり。上出来でした。姿も味も合格!親戚のみなさんありがとう。
◇これで当面、パンが売り切れても心配なし。
    


Posted by OOAKAGERA at 10:35

2021年03月01日

3月1日(月)の日記 東日本大震災10年目の振り返り③

【2011年3月17日の日記その2】 津波は川を駆け上がる
◇近所を流れる梅田川の土手を自転車でチェック。この川は海に流れ込む本流(七北田川)と合流する支流であるが、河口から8kmほどのところまで津波が来た痕跡があった。水面の1mくらい上にくっきりと泥のあと。
◇河口付近(蒲生地区)にいたはずの小船やごみが押し上げられていた。小船を漁師さんがとりに来ていた。
  

◇川沿いの溝近くの住宅街の道路にも泥、津波の跡と思われる。
  

◇津波は川を駆け上がる。川に沿って逃げるのはよくない。海からも川からも離れる必要がありそうだ。  続きを読む


Posted by OOAKAGERA at 22:17

2021年02月26日

2月25日(木)の日記 東日本大震災10年目の振り返り➁

【2011年3月17日(木)の日記】 ガソリン
地震発生日になんとか家にたどり着いた時、車のガソリン残量はほぼ最低目盛
◇13日に、新聞情報をたよりに街中の緊急対応スタンドに自転車で状況を見にゆくとすごい行列。交差点をいくつか超えている。交差点に店員を配置して案内している。地震後にローリーは入ったらしいが行列の途中で在庫切れのおそれありとのこと。1人 4000円まで制限とのこと。とても間に合いそうもないので明日早朝、新たなローリー到着を期待して並ぶことにする。
 写真は街の中心部一番町のガソリンスタンドに並ぶ給油待ちの車の列
  

◇14日早朝5時半、まず近所からアタック。列はそう長くない。ここに並ぶ。しかし一向に店の人が現れず本日の様子がわからない。しびれを切らし10時過ぎにあきらめ。15時頃自転車でまわったら店員が来たところ。少しは給油したみたい。状況の説明があれば頑張ってならび続けたのに。もったいなし。
 

◇近隣の他社2店舗チェック。その①は営業中、一人2000円まで在庫あるまで、すごい行列で今から並んでも無理判断、その②は立て看板があり明日10時から営業するとのこと。この情報は親切で貴重だった。明朝からここに並ぶことにする。
◇15日、早朝5時に行く。なんと長蛇の列。約1.5kmの長さ。仕方なし、ここに並ぶ。
(右写真は15日の河北新報の題字から) 
   
 
 13時15分、約8時間待ちでやっと給油できた。2000円、13.3リットル。これで一息。車はもう緊急用にしか使えない。

 


 

  


Posted by OOAKAGERA at 12:46

2021年02月25日

2月25日(木)の日記 東日本大震災10年目の振り返り①

来月11日は東日本大震災から10年目にあたる。ついこの間のように思えるがもう10年もたったのかと感慨を覚える。10年前の当時の記録を振り返る。日付順に適宜分割してアップ。

【2011年3月15日(火)の日記】 無事です
このブログを愛読していただいている皆様へ
◇アップが遅れましたが、3月11日に発生した東北関東大震災で、著者および家族と住居は無事です。幸い津波の被害にもあいませんでした。ライフラインはまだ完全に復旧していませんが自分の家で就寝できています。
◇鳥見ではしょっちゅうお邪魔して身近に思っている海岸部の各地での地震・津波の災害はあまりに大きく愕然となり言葉を失います。
◇被災されたみなさまに心からお見舞い申しあげます。
◇取り急ぎ安否の報告でした。
写真は震災当日東松島市から帰宅途中、利府街道利府町あたりの渋滞状況
 


【2011年3月16日(水)の日記】 水道が復旧
◇この場を借りて、身のまわりの地震被災後の復旧状況をポツリポツリ記します。
◇水道が復旧した。これで電気と水道が活きた。
◇ガスは、仙台市ガス局の供給ターミナルである仙台港の設備が壊滅的損壊で復旧はまだまだとのこと。新聞には新潟からのパイプラインの健全性を見た上で・・と出ていたがどうなるか。地震翌日にはガス局の人が来て点検後、外の元栓を閉止していった。
◇電気の復旧は早かった。14日早朝に復旧。街の中心部から夜の照明が活きてきているのがわかった。電気の復旧で、固定電話とネットも一応使用可能となる。
◇ケータイは地震発生直後にメールは送信できたがその後しばらくは使用不能状態、14日から少しよくなった。本日晩は大分スムーズになった。
◇地震翌日にはホームセンター、スーパーに必需品を購入しようとする人の列、すぐになくなっていた。
    

 

【2011年3月16日(水)の日記】 水道 その②
◇地震により、水道はストップ。ただし、わが家は集合住宅で高架水槽方式のようで当日夕方ややきたなくなりつつあったがまだ水が出た。これを浴槽にためた。これは大正解であった。手洗い・トイレに使えた。
◇かつて阪神淡路大震災の時、神戸で被災した人が姫路のわが家の隣に避難してきたときトイレの水が流れると言って涙を流していたのが思い出された。
◇我が家の近くの給水所は東仙台中学校である。12日の朝方様子を見に行った時の状況。どうも校庭の地下に飲料水のプールがあるようで手押しのポンプ(井戸)でくみ上げる方式。まだあまり人は並んでいない。
  

◇12日午後に再度様子を見に行くとものすごい行列。しかも水を入れる容器を準備しなければならないが水用のポリタンクは手元にない。当面はしのげるので、この日はあきらめ。ホームセンターにポリ容器を探しにゆくととっくに売り切れ。困った。
◇13日、水の容器として思いついたのがプラスチックの衣装ケースの箱や大きい布袋の内側に厚めのポリ袋を入れて水を受けたら何とか運搬できそう。これを準備して東仙台中へ車で行く。そしたら昨日以上にとんでもない長い行列。これは待ち時間がもったいないと判断。
   

◇携帯電話は発信がまったくきかない。仙台に住む親戚の安否が気になるので直接訪ねる(親戚は無事)。するとなんとここの地域の水道は活きていた。(電気も活きている)。近くの避難場所指定公園の水道が出るという。助かった。ここで水をもらう。
◇食器はラップやアルミホイールでつつんで使用し、洗浄は省略するのがよいとの話をラジオできいたので実行。これは効果大。
◇15日、我が家のブロックの両隣のブロックの水道が活きた。我が家の復旧も近いか。
◇16日、東仙台中を覗く。給水車からの給水になっていた。水道が活きたエリアがあるせいか列は短い。給水車は他県からの応援。午後水が出だした。うれしい。
    


Posted by OOAKAGERA at 21:14

2020年09月26日

9月26日(土)の鳥見 震災遺構 山元町の中浜小学校 公開開始

本日のニュースで「山元町の校舎浸水の中浜小学校 震災遺構として公開始まる」と報じられていた
◇東日本大震災で被災し、児童など90人が一夜を過ごした宮城県山元町の中浜小学校が教訓を伝える震災遺構として整備され、本日(26日)から一般公開が始まった。
◇山元町の中浜小学校は東日本大震災の津波で2階建ての校舎の屋上近くまで浸水し、児童や住民など90人が屋上の上にある屋根裏の倉庫に避難して全員が助かった。

◇2年後に閉校となったが、教訓を伝える震災遺構として整備され、26日から一般公開が始まった。
◇校舎は見学用の通路以外はほぼ被災直後の状態で保存されている。児童たちが一夜を過ごした屋根裏の倉庫にはコンクリートの床に段ボールや模造紙が敷かれたままになっていて、一時は氷点下となった寒さをしのぐために児童たちが身を寄せ合っていた様子がうかがえる。
とのこと。


以前本ブログにアップした中浜の話を復刻。以下の通り
H25.03.20
県南沿岸部の山元町中浜海岸で鳥見をしていたら年配の男性(Aさん)が声をかけてきた。以下Aさんの話。
◇Aさんは、津波で被災した。漁師をしていた方で、海岸すぐ近くにあった自宅跡の様子を見に来た。
(情報によると、山元町は東日本大震災により震度6を記録し、その後の津波で町全体の約4割が浸水するという壊滅的な被害を受けた。死者行方不明者は600人以上、建物全壊が2200棟におよんでいる)
◇ここ中浜の集落は約300棟の建物が全部流され、130人以上の人が亡くなっているという。海岸の松並木は軒並み倒されそれが家屋の損傷の大きな要因になった。
◇地震の直後は地面に大きな亀甲模様のひび割れが生じ、隙間から砂を含んだ水が吹き上げてきたという(いわゆる液状化)。これでマンホールは持ち上げられた。
◇県道脇の排水路のマンホールの高さがやけに高いと思ったが地盤沈下というより液状化による持ち上がりなら納得である(写真)
◇Aさん自身は漁港のある磯浜港に船をつなぎ、津波をみてからあわててすぐ近くの高台へ車で逃げて助かったが、一緒にいた同僚2人は間に合わず亡くなったとのこと。
◇海岸から500mほどのところにある中浜小の校舎の躯体は残っているがまわりにはまったく家は残っていない。津波の際、校長の適切な判断により90人の児童は自宅に帰宅せず校舎にとどまり屋上に避難して全員助かったという。津波当日の寒い夜をしのぎ翌日自衛隊に救出された。
◇Aさんは、震災前は、午前中は漁に出て午後は自家用の野菜作りという生活であった。
◇今は仮設住宅住まい。畑は土が流されて耕作できない。衣料・食料は支援があり心配ない。奥さんはガレキの分別のパートに出ているが年度末と年度初めは仕事が切れるし、いつまでも継続できる仕事ではない。
◇早く自分の家に住みたいが災害住宅地の整備は思うように進まない、動きが遅い。近くの高台に移りたいが町・県はもっと遠くへの移設を考えており個別の移動は認めてくれない。
◇漁に出るにも船がない。多用途可能にすると建造費は5000万円はかかる。2/3は補助されるが自費で1/3を負担するのは大変。さらに網や道具もそろえなければならない。
◇磯浜では現在3隻の船が稼動、これから増えてくる見込み。
◇震災前はホッキをよく獲っていたが、今はガレキが多くホッキ漁は出来ない。
◇漁ができても放射能の問題がある。ここは原発に近い。ただし県が違うと福島県のように補償がされていない。声が上にとどいていない。
◇特区で会社組織で漁をする方法は現実的でない。会社は儲からなければすぐに解散することになってしまうのではないか。
◇若くはないので他所へ行って仕事は難しい。
◇頑張れといわれても頑張りようがない。

 話をきくほどにやりきれなさを感じるばかり・・。せめて漁業補償の話が円滑に進むとよいと思った。
写真はH24年1月撮影中浜小学校まわりの状況

      


Posted by OOAKAGERA at 22:04

2020年05月23日

5月23日(土)の日記 チリ地震津波の記憶

削除しました。期限を限ってアップしました。  


Posted by OOAKAGERA at 10:00

2020年03月10日

3月10日(火)の日記 9年前の我が家の生活 東日本大震災直後

東日本大震災直後の生活 あんなこと・こんなこと

生活にかかわること、スナップ
◇ダイエーに行列
◇イオンに行列
◇ガソリン給油所の車の列
◇中学校の給水の状況
     

◇中学校校庭の給水用手押しポンプ
◇壁新聞
◇新田ケーヨーの張り紙
◇我が家の地震対策、ツッパリ某
     


地震の後の被害状況を我が家の生活にかかわること振り返ってみた(あまりに長文、備忘録です)

3月16日(水)の日記 水道が復旧
水道が復旧した。これで電気と水道が活きた。
◇ガスは、仙台市ガス局の供給ターミナルである仙台港の設備が壊滅的損壊で、復旧はまだまだとのこと。新聞には新潟からのパイプラインの 健全性を見た上で・・と出ていたがどうなるか。地震翌日にはガス局の人が来て点検後、外の元栓を閉止していった。
◇電気の復旧は早かった。14日早朝に復旧。街の中心部から夜の照明が活きてきているのがわかった。 電気の復旧で、固定電話とネットも一応使用可能となる。
◇ケータイは地震発生直後にメールは送信できたがその後しばらくは使用不能状態、14日から少しよくなった。本日晩は大分スムーズになった。
◇地震翌日にはホームセンター、スーパーに必需品を購入しようとする人の列、すぐになくなっていた。

3月16日(水) 水道 その②
◇地震により、水道はストップ。ただし、わが家は集合住宅で高架水槽方式のようで当日夕方ややきたなくなりつつあったがまだ水が出た。これを浴槽にためた。これは大正解であった。手洗い・トイレに使えた。かつて阪神淡路大震災の時、神戸で被災した人が姫路のわが家の隣に避難してきたときトイレの水が流れると言って涙を流していたのが思い出された。
◇我が家の近くの給水所は東仙台中学校である。12日の朝方様子を見に行った時の状況。どうも校庭の地下に飲料水のプールがあるようで手押しのポンプ(井戸)でくみ上げる方式。まだあまり人は並んでいない。
◇12日午後に再度様子を見に行くとものすごい行列。しかも水を入れる容器を準備しなければならないが水用のポリタンクは手元にない。当面はしのげるので、この日はあきらめ。ホームセンターにポリ容器を探しにゆくととっくに売り切れ。困った。
◇13日、水の容器として思いついたのがプラスチックの衣装ケースの箱や大きい布袋の内側に厚めのポリ袋を入れて水を受けたら何とか運搬できそう。これを準備して東仙台中へ車で行く。そしたら昨日以上にとんでもない長い行列。これは待ち時間がもったいないと判断。
◇携帯電話は発信がまったくきかない。仙台に住む親戚の安否が気になるので直接訪ねる(親戚は無事)。するとなんとここの地域の水道は活きていた。(電気も活きている)。近くの避難場所指定公園の水道が出るという。助かった。ここで水をもらう。
◇食器はラップやアルミホイールでつつんで使用し、洗浄は省略するのがよいとの話をラジオできいたので実行。これは効果大。
◇15日、我が家のブロックの両隣のブロックの水道が活きた。我が家の復旧も近いか。
◇16日、東仙台中を覗く。給水車からの給水になっていた。水道が活きた
 エリアがあるせいか列は短い。給水車は他県からの応援。
午後水が出だした。うれしい。

3月17日(木)の日記 ガソリン
地震発生日になんとか家にたどり着いた時、車のガソリン残量はほぼ最低目盛
◇13日に、新聞情報をたよりに街中の緊急対応スタンドに自転車で状況を見にゆくとすごい行列。交差点をいくつか超えている。交差点に店員を配置して案内している。地震後にローリーは入ったらしいが行列の途中で在庫切れのおそれありとのこと。1人 4000円まで制限とのこと。とても間に合いそうもないので明日早朝、新たなローリー到着を期待して並ぶことにする。
◇14日早朝5時半、まず近所からアタック。列はそう長くない。ここに並ぶ。しかし一向に店の人が現れず本日の様子がわからない。しびれを切らし10時過ぎにあきらめ。15時頃自転車でまわったら店員が来たところ。少しは給油したみたい。状況の説明があれば頑張って並び続けたのに。もったいなし。
 近隣の他社2店舗チェック。その①は営業中、一人2000円まで在庫あるまで、すごい行列で今から並んでも無理判断、その②は立て看板があり明日10時から営業するとのこと。この情報は親切で貴重だった。明朝からここに並ぶことにする。
◇15日、早朝5時に行く。なんと長蛇の列。約1.5kmの長さ。仕方なし、ここに並ぶ。
 13時15分、約8時間待ちでやっと給油できた。2000円、13.3リットル。これで一息。車はもう緊急用にしか使えない。

3月18日(金)の日記 ダイエーで買い物
◇現在の我が家のライフライン
・電気;きている
・水道;きている
・ガス;復旧の見通しきかず
◇買い物
・コンビニは閉店が多い。たまに行列がみられるがすぐに食べられるものは売り切れ?乾電池、衛生用品なども入手困難。
・小さな店(ダンゴ屋、餅屋など)に行列があったりするのはおにぎりの販売だったりする。
・ガソリンスタンドは、ほとんど閉店または緊急車両のみというところがほとんど。それでも本日4000円分給油できたところもある。
・近所の小さなスーパーは生鮮品が入荷次第売ってくれる(値段は上がっている)。そのたび行列。
・年寄だけでなく食料をあまりストックしていない生活の人には実に厳しい環境である。若い人でもじっと並んでわずかな食料を手に入れている。大変だ。
◇本日はまずじいちゃんの補聴器用の特殊な乾電池を求めて仙台駅近くの店へ。ちょうど久しぶりに開店したところで無事電池を入手できた。
◇我が家から仙台駅までは約5kmあるがこういう状況でガソリンを節約しなければならないので自転車でゆく。今朝は雪が積もり日陰の路面は凍りついたまま。気をつけて行く。
◇その後せっかく街の中にでたので、食料品を入手しようと近くのダイエーに行く。とんでもない長さの行列。覚悟を決めて並ぶ(10:30)
◇要所要所には警備員が配置されていて実に整然と並んでいる。少しずつ進む。
◇14時過ぎに入店
◇1階で米と水、地下1階でカセットコンロボンベ、乾電池など、地下2階で食料品を買えた。人気のあるものは当然販売数の制限あり。
◇寿司や食パン・牛乳なども購入できた。扱う品数が多いせいかまだ残っているものの中にもレトルトや冷凍品など「いいもの」があった。新規に入荷もしているものがある。
◇我が家で古いパン焼機をみつけたので、なくなった食パンを焼こうとしたが、ドライイーストなるものと強力粉が必要。ダイエーの売り場をさがしたが小麦粉は全部売り切れ、イーストなんてもともとないみたい。あきらめ。
◇買い物をしすぎて大きな袋が3つ。自転車で運ぶのにてこずった。
◇帰りがけ風呂屋に行列が出来ていた。

3月18日(金)の日記 地震関連覚書
本日まで今回の地震がらみのいろいろなこと覚え書
◇電気がくるまで、いや来た後にも携帯ラジオには御世話になっている。胸のポケットに入る小型のものだが貴重な情報源である。余震が多く緊急地震速報も頻発するので常にラジオかテレビをつけておく必要がある。ラジオはよかった。ただし地元の東北放送は早い時点から聞こえなくなったのは残念。
◇地元の新聞河北新報は震災翌日も新聞を発行した。震災にあっていないよその県の新聞社と提携していたらしい。阪神淡路大震災の時の神戸新聞も京都の新聞と提携して頑張っていた。素晴らしい。
◇鳥見でよく行った仙北・仙南と海岸部の被害状況がテレビに映るうつるたび、何でこんなにと思ってしまう。もし現場に居合わせたらはたして無事逃げられたのか・・・。山元・亘理・岩沼・名取・荒浜・蒲生・仙台港・東松島・宮戸島・石巻・牡鹿半島・・・・いいところだったのに・・・。鳥見の際、現地で知り合った方々は無事だったのだろうか。無事であってと祈るばかり。
◇本棚・冷蔵庫などにとりつけていた天井との間の「突っ張り棒」は非常に有効であった。
◇非常時はまわりの人に声をかけよう。心強い・気持ちが落ち着く。
◇携帯電話は地震直後はメールが通じた。これがよかった。その後は2日ほどほとんど電話もメールも通じなかった。その後は携帯電話は情報伝達手段として有効だった。電気がくるまでは充電できずに困った。車から充電できる充電器や予備の電池を用意していた方がよい。
◇ガスの復旧が遅れる。こんな時に備えて卓上のLPGのコンロはあったほうが良い。
◇電気がいきているので、電子レンジ、炊飯器、電気ポット・コーヒーメーカーを調理や湯わかしに利用している。
◇水道が活きるまでは、食器を汚さないために食器をラップでくるんで使った。
◇自転車が活躍。古い自転車だが自動車の代わりをしてくれている。
◇地震後のハガキが千葉県から来た。定形郵便物のみOKなのかも。

3月19日(土)の日記 その① 食パンが焼けた
電気を熱源とする自動のパン焼き器が出てきたとふれまわったおかげで親戚①から材料の強力粉、親戚➁からドライイーストが供給された、さらにパン作りの得意な親戚③からメールでレシピを教えてもらいおそるおそるチャレンジ。
 材料を入れて、スイッチを入れてただそれだけ。4時間の間、時々あやしげな音を発しているのを待ち続けて・・・出来上がり。
 上出来でした。姿も味も合格!親戚のみなさんありがとう。
 これで当面、パンが売り切れても心配なし。

3月20日(日)の日記 カセットボンベあり
自宅から少し遠いがケイヨーD2新田東店で買い物をした。ここはいわゆるホームセンター。
◇店頭販売。店頭のいつもは植物などを売るエリアに買い物カートを並べている。
◇9:40に列に並び10:30には入店できた
◇世帯ごとの販売制限あり、売り切れもあり。  
◇一部の品は店内で販売。地震がくるとすぐに店外に出される。
◇LPGのカセットコンロとボンベ在庫あり カレンダーは3連休だがだれものんびり休暇の気分ではないでしょう。

3月21日(月)祝の日記① 宅配便が届いた!
◇佐川急便で宅配便が送れるようになったとのことで一昨日関東から緊急資材食材を送ってもらったが、無事今朝受け取れた。
◇ただし発送№をよく聞いた上で到着を電話確認の上営業所まで取りにゆくことが必要。
◇営業所は荷物を受け取る人たちであふれていた。
◇荷物を送ってくれた親戚Cどの、佐川急便どのに感謝感謝である・
◇一息つける。
◇クロネコヤマトも復活したようだ。

3月21日(月)祝の日記③ 髪を洗うには
◇ガスがきていないので、入浴・シャワーが出来ない。復旧はまだまだで1ケ月以上はかかるらしい。
◇長蛇の列に並んで銭湯に入るかお湯をわかして顔や場合によっては体を拭くしかないが髪だけは洗いたい。
◇ガソリンがなくてとても鳴子温泉までは行けない。
◇男性は家のお湯でなんとかなるとして、女性は・・・・街の理容室で1000円くらいで洗ってくれるところがあるのでこれを探して洗髪しては・・・?

3月22日(火)の日記② ついに風呂に入れた
生活環境、本日の日記
◇病院に薬を取りに行く。連休明けであり、薬が少ししか配布されていないせいもあり病院外来はすごい人。薬局でも待ち時間大。薬をもらうのも大仕事。
◇ついに風呂に入れた。それも温泉(沸かし湯の鉱泉らしいが)。地元情報に詳しい親戚Aさんの紹介で穴場のひなびた山の温泉に。昨日までは休みのせいでかなり込み合っていたらしいが本日はお客は少なめ。待ち時間小1時間でゆっくり入れた。仙台の中、近場にこんなところがあるとは・・。ポカポカと風呂から出ても温かい。地震以来11日目の風呂、生き返った・親戚Aさんに感謝。
◇電話、メールとも環境がほぼ戻ったようでスムーズにやりとりできている。遠方からの激励電話やメールがたくさんきた。嬉しい限り。皆さんお気遣い有難うございます。エールに感謝です。
◇宅配便が復旧して、必要品があれば送るという連絡もあちこちからいただいた。ありがたい限り。でも何とかペースをつかんで生活できており今すぐ欲しいものといえばガソリンです。まさか送って貰うわけには行かないし。
◇本日の河北新報1面には、塩竈港に入港第1隻目のアポロマークのタンカーの勇姿。「がんばれ」と横断幕。こちらからは大声で「有難う」と言いたい。あと数日でガソリンも出回るでしょう(そうなって欲しい)
◇ガスがなくて調理にはて手ずっている。
 カレー調理の一幕
 ・野菜・肉はホットプレートでいためる
 ・電気ポットで沸かした熱湯も利用して・・
 ・耐熱ガラスに入れて電子レンジで加熱
 ・最後にLPGのカセットコンロで加熱仕上げ
 ・ひとつひとつが新しい操作なのでスムーズにゆかず時間がかかる
 ・LPGのカセツトコンロのボンベはあまり在庫がないので出来るだけ節約して使っている。
 早くこいこい、ガスガスガス
◇仙台市ガス局が朗報を発表。新潟からのパイプラインが使えるようになり、まず病院から、そして順次周辺部からガスを生かすとのこと。早い復帰を期待する。
◇消防車・救急車のサイレンの音が少なくなった。ヘリコプターの音も少なくなった。災害派遣の自衛隊や他県の救急車はまだ見かける。
◇北海道で10年間まったく症状がでなかった花粉症が本州に帰ってきてしっかり復活してしまった。今日は鼻水と目のかゆみでサイアク。

3月23日(水)の日記② クロネコ便も来た
◇佐川急便に続いてクロネコヤマトの宅急便も開通した。
◇昨日午前大阪で出した荷物が本日午後に仙台の営業所についた。
◇ネットで到着を確認したらすぐに電話でも到着の連絡があった。
◇自転車で卸町の営業所まで取りに行った。まだ数が少ないのか待ち時間なしで受け取れた。
◇はるか遠方からの救援物資に感謝。親戚Dさんありがとう。
◇東北自動車道の大型車が通行可能(緊急に限られるが)となったせいか関西から翌日に到着とは早い!

3月23日(水)の日記① いやされる
地震後の生活で「意外に癒やされたこと」
◇電気がこない生活の中でのラジオ。NHKの年を重ねたアナンサーの実に落ち着いた口調に張り詰めた思いはほんとに癒された。
◇助け合い。日ごろ顔をあわせる程度でさほど親しくない人ともお互いに無事を喜ぶ言葉を交わすだけでもずいぶん落ち着く
◇あかり。やはり夜は明るいとほっとする。
◇テレビのCMがAC(公共広告機構?)に切り替わった。阪神淡路のときを思い出す。最初は目新しい感じだがすぐにめいってきた。朝ドラ「てっぱん」が再開されてやっと明るい調子が出てきてよかった。
◇ラジオですこしずつ元気付けの意味で音楽を流すようになった。聴いたこともないチェロの調べに心が落ち着いた。テレビは「BS日本心の歌」でのなつかしい愛唱歌の調べに癒された、選曲は考えてくれているようだった。
◇こんなときだからと花壇に目を向けるとクロッカスが咲き出していた。チューリップももう少しで咲く。マリーゴールドの種まきをした。少しずつだが落ち着いた生活を取り戻しつつある。

3月23日(水)の日記③ 買い物事情改善
◇買い物事情が少し改善した。
◇近所の小規模・中規模スーパーとも30分も待たないで入れる。
◇牛乳等乳製品はダメ、食パンは手に入れにくいがその他かなりのものが出回っている。
◇ガソリンはまだまだのようで近所のスタンドはまだ閉まっている。

3月24日(木)の日記① 宅急便が配達された
◇千葉県北西部に住む友人から宅急便が届いた。昨日発送本日午前中に配達された。生鮮食料品がどっさり。ありがたい。
◇また取りにゆかなければと思っていたら、卸町の営業所に荷物があふれたか・・・届けてくれた。ありがとうクロネコさんありがとう。

3月24日(木)の日記② 本日午前ガソリンスタンド状況
◇本日午前のわが家に近い東仙台から北四番町方面のガソリンスタンド状況。宮町交番に近い出光が一般車にも給油していたが整理券の№が450までいってる。車の列は上杉から北六までまわり北六小あたりまで連なっていた。
◇あまり待たないで給油出来るようになるまでにはまだ日数がかかりそう。

3月24日(木)の日記③ 牛乳買えた
◇昨日は買えなかった牛乳を買えた。近所の中規模スーパーで10分待って牛乳1本ゲット。近隣の別のスーパーでも同様。少しずつ環境はよくなっている・・・か?

3月26日(土)の日記② 北海道から牛乳が
◇相変わらず牛乳ヨーグルトなどの乳製品が品不足。あちこちミニスーパー・コンビニをまわり行列に並んでなんとかゲット。これが北海道産。昨日仙台港のフェリー岸壁の使用が出来るようになり太平洋フェリーのおなじみ「きたかみ」が北海道から救援物資を大量に積んで入港というニュースがあった。北海道の皆さんにはごめいわくをおかけします。太平洋フェリー有難う。
◇自転車で近所を「地回り」しながら目的の食料を買えそうなところに並んでゲットしているが、これは
 ①時間があること、②体力があること、③テキトーに情報を得てテキトーに判断できること   ・・・が必要である。
ということは以下の人には非常に過酷な環境である。
 ①お年寄り、②幼児・幼児連れ、③昼間行動できない忙しい人、④町の情報にうとい人(井戸端会議の出来ない人)
自宅に住みライフラインが活きて一見平穏な生活の復活に見えても、生きていく上であまりに厳しい環境にある「避難民」はたくさんいる。

3月27日(日)の日記② 佐川もクロネコも配達してくれる
◇佐川急便もクロネコヤマトも宅配してくれるようになった。一昨日北海道で発送手続きしてくれたクロネコ宅急便荷物が本日午後にはわが家まで配達された。平常と変わらない速さでびっくり。
◇北海道の貴重な食料、パン焼きの材料、非常食、日用品まですごい量の救援物資。ありがとう。心遣いはうれしい限り。
◇佐川急便も、千葉から2日で配達までしてくれた。これまた生鮮食料をはじめさまざまの救援物資。もう感謝の気持ちばかりです。ありがとうございます。

3月27日(日)の日記③ 本日現在の生活環境
本日現在のわが家の生活環境
◇電気・水道は来ている。
◇ガスは、まだ来ていない。仙台市ガス局がエリアを区切って段階的に復旧にかかった。わが家のまわりはあと2-3日で復旧とみた。ガスがないので調理にてこずり、風呂も入れない状況。
◇買い物は相変わらず不便。お店への入荷品目・数量とも少ない。食料品は大きい店ほど品数は多い(といっても平常に比べてまったく少ないが)行列が長い。コンビニは開いてる店は半分以下、置いているものは限られている。ときどき「当たり」があるのでこまめに行列に並んで覗く必要あり。近所のミニスーパーは品物が入荷次第すぐに店頭に並べてくれる。ただしいつ来るかまったくわからない。行列の様子をしょっちゅう監視していないと望むものは買えない。
◇すぐ近くの薬局は薬の入荷が少ない。私の花粉症に効いた希望の薬が買えなかった。
◇ガソリン状況は一向によくならない。少しずつ入荷しているようだが、給油してくれるのはごく限られた店のみ。給油しているところは1km-2kmの長蛇の列。もう緊急用にしか車は使わない。
◇宅配便は復旧。自宅まで配達してくれる。
◇仙台市内の病院は外来をほぼ平常体制で受け入れてくれるようだ。
◇東北自動車道は一般車も通れるようになった。鉄道はまだまだ。
◇市内のバスは、本数が少ないようだが通っている。復旧当初は時刻通りに来ず、市内まで数キロを歩いて仕事場に通っている人もいた。
◇東電福島第1原子力発電所は深刻な状況が続いている。仙台までは約100km。これからどうなることやら心配ではある。昔ジェーンフォンダがテレビか新聞かの記者をした「チャイナシンドローム」という映画があったことを思い出す。。
◇わが家と同じ宮城野区の海の近くや隣の多賀城市には特に津波による被災を受けた方が大勢いる。まだまだわが家は恵まれている。

3月28日(月)の日記② 安否確認システムに登録してあった
◇今回の震災で、親戚が当方の無事をGoogleの安否確認システムに登録してくれていて、これ見て安心していたという連絡が遠方の人からあった。登録していてくれた親戚Eさんありがとう。

3月28日(月)の日記③ 宅急便山口県から2日で到着
◇本日も宅急便が届いた。遠方山口県から2日で配達された。クロネコさん頑張ってくれている。ありがたい。お茶を飲みながら久しぶり山口の名産和菓子等をゆっくり味わった。気分が晴れ晴れとしました。お心遣いに感謝感謝です

3月29日(火)の日記① ガソリン25リットルゲット
ガソリンが最低目盛のままで少し心もとないので本日は朝から覚悟の上車の行列に並んだ。
◇近所の、国道45号苦竹駅東側、ヤマダ電機前の給油所。苦竹SS。給油能力が大。ここのところ毎日営業している。ただし午後には在庫切れのようだ。
◇ここの行列は最初の信号から2手に分岐している。下流側ではさらに分岐している。自転車によるチェックで本流である45号~中原本通りに並んだほうが早いと判断していたので、このルートの最後尾につく。6:40、苦竹郵便局前。30分遅くても10台くらい並んだだけ。並び出すのはもう少し遅くてもよかった。
◇8:40に列が動き始めた。給油開始とみえる。
◇9:00には45号IN、9:15苦竹駅ガード下と動きは早い。
◇9:50i給油できた。レギュラー単価160円、25リットル(4000円分)ゲット。セルフ。
◇セルフ灯油も簡単にゲット。シナネン石油殿ありがとう。
◇待ち時間3時間40分、前回よりはまし。これも時間がたっぷりあるからできること・・・。
◇エンジンをとめて待っていると寒い。十分な防寒対策をしたつもりだが足元から冷たさが這い上がってきた。津波の被害を受けて何日か孤立した人たちは防寒着もなしにこんな寒さに耐えたと思うと頭が下がる。
◇待っている間に文庫本1冊を読んだ。本棚からみつけた古い本。柳田邦夫著「恐怖の2時間18分」、1973年3月アメリカスリーマイル島の原子力発電所で起きた事故のドキュメント記録。今日現在も深刻な状況にある東電福島とは原因も影響も大きく異なる。

3月29日(火)の日記② 購買環境ぐっと改善された
◇昨日から24時間営業のセイユーが一斉に開店。近所の店に行く。
◇本日午後からの様子。行列なし、店の中もゆっくり選べる。商品もかなりそろっている。
◇朝のうちはそろっていたと思うが、ヨーグルト・食パンは在庫切れ。牛乳はあり。野菜などもある。
◇食料・日用品の購買環境は大分よくなった。

3月30日(水)の日記 気仙沼までハガキが5日で到着
◇気仙沼の友人宅へ出したハガキが5日かかって到着した。
◇友人宅は幸いやや山手で津波の被害にはあわなかった。
◇やっと郵便が配達されるようになったということか。
◇道路はなんとか

3月31日(木)の日記① 親戚に風呂をもらいに
◇ガスがなかなかこない。仙台市ガス局は連日開栓作業を進めておりガスが使用できるようになった地域は少しずつ増えている。わが家のまわりは、一度予定が発表され、2-3日前にはガスは生きるはずだったがなぜか後回しになりまだ使用できない。
◇2日ほど前にガスが生きた仙台市の反対方向に住む親戚から風呂の招待があり、お言葉に甘えて出かけた。久しぶりの風呂は気持ちがよかった。親戚Dさんありがとう。
◇夕方、わが家の近くでガスのマンホールを開けてチェックをしていた。仙台市ガス局に応援に来た北陸ガスの方々。さて明日開栓になるか。なって欲しいが。

4月2日(土)の日記① ガソリン給油状況やや改善
◇利府街道岩切の町を過ぎて利府町に入ったところの宇佐美、午前中10時過ぎに通りかかったら車は行列なしで給油出来ている。せっかくの機会なのでUターンして待ち時間ほとんどなしで満タン給油。ラッキー。出光のローリーの動きが活発になっている。アリガトサン。
◇ここも午後には行列が出来ていた。それでも2-300m、と短い。ここは穴場かそれとも少し給油環境がよくなったか・・?あるいは本日はゲリラ的に急に営業したのか・・・

4月3日(日)の日記① まだガスがこない
◇仙台市ガス局は他都市の応援を得て、3200人規模のオールジャパン体制で懸命にガスの復旧に取り組んでおり昨日まで約1/3の家庭が復旧できたらしい。
◇毎日の開栓予定が町単位で示されているがわが家まわりは未定である。
◇本日わが家まわりに東京ガスの系列の会社の応援の人がいてなにかやっているので聞いてみると各家庭のメーターの入口の取り合い弁までの供給側の復旧をしているとのこと(ここで不具合が見つかれば修理するという流れらしい)。このあたりの復旧の見込みは不明とのこと。動きはあるが、2-3日中には復旧しそうにない。残念。

4月3日(日)の日記② 仙台市民の被害
◇震災の後、大した被害がなく元気にしている様に見える普通の仙台市民の、わかってきた被害(私がわかってきたということ)
◇建物に被害がないといえても、地震で家財が痛めつけられていることがある。食器棚が倒れて食器がメチャメチャに破損とか本棚が倒れて本・家具・床などが破損など
◇震災当日や2-3日後まで、大きな余震が頻発する中散乱した家に戻って過ごすのは怖くて自動車の中や避難所で過ごした人も多い。
◇建物の地震による被害もわかってくるほどに多い。古いビルなどは躯体に損傷を受けたり、盛り土の造成地では家全体が傾いたりといった被害も散見する。
◇近郊の森や高台などは地割れ・土砂崩れなどを多く目にする(写真は青葉山のガケ崩れ)
◇勤め先が津波の被災地で車をなくした人の話も耳にする。
◇これから、心の面の被害も顕在化してきそう

4月4日(月)の日記② ついにガスが来た
ついにガスがきた。これでわが家で風呂に入れる。調理も元に戻れる。
◇今朝の新聞に、突然わが町が本日から開栓開始と出ている。ビッグニュース。
◇昼前、わが家の前の公園にガス会社の人、聞けば宮崎県からの応援の方々で開栓中とのこと。遠路ご苦労様です。わが家ももうすぐと期待。
◇午後5時頃、わが家にやっと来られました開栓組。すぐにOK。万歳!。
 ありがとう、オールジャパンガス復旧隊の皆さん

4月4日(月)の日記① ダイエーでまともに買い物
◇所用で街の中に出たついでにダイエーで食料品など買い物
◇もう行列なし、並ばなくとも買える。
◇品物もかなりそろっている。
◇食料品の中では(私の買い物の中では・・)、牛乳が単一銘柄(岡山産)のみそれでも数量制限なし、ヨーグルトはあまり見かけない銘柄のみしかも1人1個に制限あり。乳製品はかなり品不足のままである。地元の有力2工場の製造停止がきいている様だ。
◇街の雰囲気も落ち着いている。救急車に出会わなかった。
  


Posted by OOAKAGERA at 12:37

2020年01月16日

1月17日(金)の日記 阪神淡路大震災から25年

2018.01.17の記事を 復刻。2020年は25年目になります

 (本項は数日後に削除します) ➡ 削除しました。
  


Posted by OOAKAGERA at 18:47